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Vol.35【GLOBAL WATCH】梅上零史

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

肩をすくめるジャック・マー 小口決済の主導権、中銀がデジタル通貨で巻き返し

 アリババ集団と中国政府との溝が広がってる。傘下のフィンテック企業、アント・グループ(螞蟻集団)の上場計画に金融当局が待ったをかけた。アリババ創業者でアントのオーナーであるジャック・マー(馬雲)氏の当局批判がきっかけとされる。しかし問題の本質は、政府が自ら手掛けようとしてるサービスと、アントの小口決済サービス「支付宝(アリペイ)」が競合することにある。中国人民銀行(中央銀行)の「デジタル人民元」構想で、民間に奪われた小口決済の主導権を国が取り戻そうとしているのだ。政府・中銀が小口決済インフラを整備すると何が起きるのか。インドにその先例を見ることができる。

 世界の耳目が米国の大統領選に集まっていた2020年11月2日、マー氏やアントの幹部が突然、中国金融当局から北京に呼び出された。10月24日のマー氏の金融サミットでの講演が問題視されたとされ、翌3日には上海証券取引所が、2日後に控えていたアントの新規株式公開(IPO)を延期すると発表。アントはこの措置を受けて香港での上場も先延ばしすることを発表した。アントは評価額2千億ドル(1ドル=104円)とされる世界最大のユニコーンで、上海と香港のダブル上場で344億ドルを調達する予定だった。19年12月に上場したサウジアラビアの国営石油会社サウジアラムコの調達額294億ドルを超える史上最大の上場になると期待され、香港と上海では個人投資家からの応募が殺倒し、その額は公募の100倍近い3兆ドルに上った。 報道によれば、マー氏は上海市の講演で王岐山国家副主席、周小川前人民銀総裁らを前に、「金融の本質は信用。今日の銀行は質屋のような発想の延長でいる」「(先進国の取り決めである)バーゼル合意はまるで老人クラブ。彼らが解決すべきは金融システムの老化問題。中国の問題はその逆で、金融のエコシステムがないことだ」「監督と管理は別。監督は発展を見守ること、管理は問題があった時にそれを正すこと。現在の中国は管理能力は高いが、監督能力が不足している」「良いイノベーションは監督管理を恐れない。将来を過去のやり方で管理してはだめだ」などと語ったという。アント上場延期は、報告を受けて怒った習近平国家主席が決めた、と米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは伝えている。

 アントは中国のフィンテックを代表する企業だ。米中対立の分脈の中、米国の技術覇権に対抗する中国の切り札のような存在だったはず。しかしアント上場延期事件で表面化したのは、中国国内における国家とビッグテック企業の溝だ。アリババや騰訊控股(テンセント)といったビッグテックは政府の先兵でも出先でもなく、むしろそのビジネス帝国が膨張する中で、中国・共産党にとっても警戒すべき存在になっていた。

 アントはQRコードを使った小口決済ビジネスを主導してきた。そのイノベーションは中国発として世界から注目されていた。アリババの電子商取引のネット決済サービス「アリペイ」は、買い手と売り手の間に入って取引の安全を保証する「エスクロー(第3者預託)」サービスとして始まった。買い手からお金を預かり、商品が届いたとの連絡を受けて初めて売り手にお金を支払う。仕組みとしては前払い方式の「電子マネー」決済と同じ。アリペイを運用するアントはこれを零細事業者の店頭というリアル決済にも展開した。これがQRコード決済だ。電子マネーのチャージは中国の銀行口座から入金したり、第3者に現金を渡して自分のアリペイ口座に送金してもらったりする。日本人旅行者も19年11月からクレジットカードで入金できるようになった。 電子マネーは常に運用業者にチャージしたお金の一部が滞留する。アントはこの滞留金を運用して利益を上げ、その収益を消費者・零細事業者への融資、利用者の信用情報提供サービス、資産運用ビジネスなどに再投資してきた。銀行口座はないがスマホは持っている消費者にキャッシュレス決済の環境を提供し、アリババの電子商取引を国内で拡大すると同時に、だれもが金融サービスを受けることができる「金融包摂」を推進する役割も担ってきた。

 しかしその膨張する影響力を金融当局は、金融システム全体に波及しかねないシステミック・リスクと認識するようになっていた。アリペイで利用者が1日に取引できる上限金額を段階的に引き下げ、詐欺やマネーロンダリングに利用するのを規制。さらにアント倒産といったいざという時に備え、利用者がチャージした金額に対し、アントが中銀に資金を供託するよう義務化し、19年1月からは預かった金額を全額供託させるようにした。アントは滞留金を運用できなくなり収益は低下。利益率の高い融資ビジネスに注力するようになった。20年1〜6月は融資による営業利益が285億元(1元=約16円)となり、決済事業を上回る全体の約4割となった。 そしてアントの前に立ちはだかろうとしているのが、中銀デジタル通貨(CBDC)である「デジタル人民元(DC/EP、デジタル通貨/電子決済)」だ。人民銀は14年からCBDCの研究を始めていたが詳細は不明だった。政府がデジタル人民元の具体的な取り組みを開示し始めたのは20年になってからだ。中国商務部は20年8月14日、深圳、蘇州、雄安、成都の4都市と22年北京冬季五輪の会場の計5カ所でデジタル人民元を先行試行すると発表した。深圳では10月上旬に総額1000万元のデジタル人民元を5万人の市民にお年玉のように抽選で配布。幸運な人は200元を専用のデジタルウォレットで受けとり、ウォルマートやファミレス「面点王」、大型書店「羅湖書城」などで使うことができた。 深圳での利用者の評価は「アリペイなどと違わない」など今ひとつだったようだが、報道によれば、蘇州では公務員の交通費をデジタル人民元で支給したという。国が給与などの形で強制的に普及させれば利用は進む。受け取った後に、利用者がアリペイに換えるか、あるいは現金に換えるかどうかは自由だが、使い勝手さえよければ直接使うようになるだろう。なにより法定通貨なので、店側は法的には受け取りを拒否できないはずだ。

 キャッシュレスの小口決済の代表であるQRコード決済は、アリペイとライバルの「微信支付(ウィーチャットペイ)」が市場の9割以上を占めており、両方の口座さえあれば消費者は支払いには困らない。こうした状況の中、あえて政府がデジタル人民元を推進するのはなぜなのか。一帯一路構想とともにデジタル人民元を国境付近で普及させ、世界通貨であるドルの覇権に挑戦するといった分脈で語られることも多いが、今回のアント事件でデジタル人民元の狙いが国内の小口決済システムの一新にあることが明確になった。

 人民銀行は日本の全国銀行資金決済ネットワーク(全銀ネット)に相当する「銀聯(ユニオンペイ)」で銀行やクレジットカード会社の間の決済を一元的に管理しており、さらにアント、テンセント、京東集団(JDドットコム)などと共同でQRコード決済を一元的に管理するシステム「網聯(ワンレン)」を18年6月に稼働させた。アリペイも稼働と同時に同システムに接続し、銀行預金からアリペイへのチャージ情報はすべて中銀が把握できるようになった。これまでアリペイなどは各銀行の個別のシステムに直接接続し、中銀は把握していなかった。これは預金口座の資金の動きを把握するものだが、デジタル人民元は紙幣・貨幣を置換するもので、アリペイにチャージされた後の資金の流れも監視できるようになると見られる。利用者がアリペイで何を購入したのかも政府が分かる究極の管理社会ができ上る。

 米国で聖書に次いで影響力があると言われる小説に「肩をすくめるアトラス」がある。アイン・ランド女史が1957年に出版したサイエンス・フィクションで、主人公の一人、リーアーデン・スチールの創業社長ハンク・リアーデン氏は、ハイテク合金「リアーデン・メタル」を開発した。政府の官僚からその権利を国家に供出しろと迫れらたリア― デン氏のとった行動は「失踪」だ。無能な役人から権利を奪われた天才・発明家(アトラス)たちが相次ぎ身を隠し、アトラスたちのストライキで社会が回らなくなる未来を描いた。自由至上主義者(リバタリン)たちの愛読書で、舞台は米国だが、まさに今、リアーデン氏にジャック・マー氏の姿が重なって見える。

 もっとも政府としては、役人の官僚主義ではなく、大企業による独占こそがイノベーションを阻害すると言いたいところだろう。米国では20 年10 月20日、司法省が反トラスト法(独占禁止法)違反で米グーグルを提訴した。グーグルは自社の検索サービスを普及させるため、スマホメーカーにライバルのアプリの初期搭載を禁じたり、スマホ市場をリードするアップルとはグーグルの検索サービスを標準とする長期契約を交わしたりしたという。90年代、パソコンの基本ソフト(OS)を独占していた米マイクロソフトが、司法省から独禁法違反で提訴された事件の再来である。 アリペイ対デジタル人民元は競争阻害の問題ではなく、強大な権限を持つ国・中銀が自ら競争に間接的に参加する側面がある。中銀はデジタル人民元のインフラを銀行やおそらくアントにも開放し、オープンな利用環境を提供するだろう。システムを利用する金融機関はインフラ投資負担から開放される一方、公平な競争の矢面に立たされる。アントやテンセントが閉じたシステムの中で享受してきた先行者利益は次第に失われることになる。デジタル人民元を通じて、異なる電子マネー間の取引もできる相互運用性も高まるだろう。

■印UPI、小口決済競争が激化

 そういう先例が実はインドにある。インドでは16年11月、モディ政権が突然、500ルピー(1ルピー=約1.4円)と1000ルピーの高額紙幣の廃止を実行。市場では新紙幣の発行も追いつかずにキャッシュ不足に陥り、人々はキャッシュレス決済ができるアプリに走った。その恩恵を最も受けたのがワン97コミュニケーションズが運営する「ペイティーエム(ペイ・スルー・モバイルの略)」だ。ペイティーエムは携帯電話の通信料チャージサービスとしてスタートし、電子商取引の決済サービスに発展。アリペイのインド版で、15年にアリババが出資。17年にはソフトバンクやアントも出資した。日本の「ペイペイ」はペイティーエムから技術支緩を受けて導入したものである。

 ところが高額紙幣廃止の前の16年4月、インド準備銀行(中銀)とインド銀行協会が共同出資するインド決済公社(NPCI)が銀行口座間のリアルタイム決済システム「統合決済インターフェース(UPI)を稼動させていた。ペイティーエムのような電子マネー以上に、UPIを使う決済サービスが急速に普及する。UPIでは利用者は携帯電話から、送金先の携帯電話の番号を入力するだけで送金・振り込みができる。NPCIは「バーラト・インターフェース・フォー・マネー(BHIM)」というアプリも開発し、すべての銀行をサポート。利用者は銀行のアプリを使って自分の口座から、相手の口座に直接送金もできる。

 ペイティーエムは閉じた系で、お金をやり取りするにはペイティーエムに口座を持つ必要がある。利用者の利便性を高めるため、ペイティーエムもUPIに対応することを余儀なくされ、今やUPIにぶら下がる送金窓口の一つになり下がった。現在、UPIの取引量でもっとも大きなシェアを持つのは、ウォルマート系(同社が買収した電子商取引サイト、フリップカート系)の「フォンペ」で、グーグルペイが続く。ペイティーエムは3位で、アマゾンペイが追い上げている。そしてフェイスブック系のチャットアプリ「ワッツアップ」がUPIによる送金サービスを20年11月に開始した。UPIという公的インフラの上で民間の決済サービスが猛裂な競争を始めている。

 UPIはCBDCではなく、あくまでも預金口座を前提とした決済システムだ。CBDCのように現金を代替するものではない。UPIは誰がどこの口座にいくら持っているかの台帳が一カ所に集中しておりデータだけを切り出してスマホのデジタルウォレットに保存して持ち歩くことはできない。CBDCは一般的にはブロックチェーン的な技術で構築され、複数のサーバーに台帳データが保存してある。データだけをウォレットに保存して、現金のように持ち歩き、他人のデジタルウォレットに送金したり、店舗のウォレットに支払ったりできる。預金を代替するのか、現金を代替するのかの違いはあるが、利用者からすれば使い勝手は同じだ。インドの小口決済シーンで起きたことは中国でも起こりうる。フォンぺやグーグルペイに相当するのが、引き続きアリペイ、ウィーチャットペイなのか、それとも第3勢力なのか。いずれにしろアントには逆風が吹きつつある。


Profile 梅上零史(うめがみ・れいじ)
大手新聞社の元記者。「アジア」「ハイテク」「ハイタッチ」をテーマに、日本を含むアジアのネット企業の最新の動き、各国のハイテク産業振興策、娯楽ビジネスの動向などを追いかけている。最近は金融やマクロ経済にも関心を広げ、株式、為替、国債などマーケットの動きもウォッチしている。

(企業家倶楽部2021年1・2月合併号掲載)

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