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旭酒造会長 桜井博志

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

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山口県から「獺祭」を携え世界を駆ける

山口県から「獺祭」を携え世界を駆ける

山口県の山奥の小さな酒蔵で生まれた日本酒「獺祭」が今、世界で人気を呼んでいる。生みの親は旭酒造の桜井博志会長である。杜氏を廃し、徹底した数値管理で創り出す純米大吟醸「獺祭」は、そのさわやかな香り、すっきりとした味わいが世界のファンを魅了する。コロナ禍でどこもが委縮している2020年秋、新丸ビルに「獺祭バー」をオープン、元気の源にならんとアクセルを踏む。銘酒「獺祭」はいかにして生まれたのか、革新の騎手桜井会長にその真意を伺った。聞き手:本誌副編集長 三浦千佳子

丸の内に「獺祭バー」が出現

問 この10月1日から東京・丸の内の新丸ビルにコンセプトバー「獺祭バー」が誕生しました。期間限定とはいえ、コロナ禍のこの時期にオープンするというのは大胆な決断ですね。


桜井 この「獺祭バー」は、当初東京オリンピックを機に来日するお客様に、日本文化の魅力を伝えるために企画しました。本来ならこの7月にオープン予定でしたが、新型コロナウイルスの影響でオープンを見合わせていました。しかし元気な東京の夜を取り戻したい、こんなときこそ計画を実行しようとアクセルを踏みました。東京丸の内から日本の多面的魅力を発信していきます。


問 日本国中に日本酒のブランドは山ほどありますし、1年半という長い期間ですから、三菱地所の担当の方もかなり勇気が要りましたね。


桜井 以前から申し出ていたとはいえ「獺祭バー」に許可をいただき、感謝しています。


問 これまで見たことのない斬新な内装に驚きました。


桜井 内装デザインは建築家・川添善行さんにお願いしたのですが、「旭酒造は獺祭というお酒を通して、人と人とが結びつく状況をつくろうとしている。したがってここは、人が主役の空間」と言って下さり、あの内装が出来上がりました。


問 獺祭をロックで、“光る”グラスで飲むというのも新しい体験です、真っ暗な中でそのグラスが蛍のように青く光るのも幻想的ですし、その明かりをもって店内空間が完成するというのもユニークな発想ですね。


桜井 「獺祭バー」だけで完結するのではなく、一杯飲んであそこから他の店に散らばって欲しいと。夜の時間を楽しむきっかけになればいいと思っています。

失敗と革新の日々

問 桜井会長の人生は波乱万丈、失敗と革新の連続と聞いています。父親と喧嘩別れし会社を飛び出したとは本当ですか。

桜井 その通りです。1976年当時は酒造業界全体で売り上げが落ちていた時期で、私はかなり危機感を感じていました。しかし父は変革を望まなかった。酒造りの方向性などで対立、大喧嘩して退社。石材卸の会社を設立しました。

問 石材とは全く違う業種ですね。

桜井 経営は順調で面白かったですね。ここで品質がいいものは売れるという商売の原点に気づきました。当時の酒造りは品質を重視していませんでしたから、カルチャーショックでした。

問 石材卸がうまくいっていたのになぜ実家の酒造りに戻ることに。

桜井 1984年、父がガンで急逝して戻らざるを得ませんでした。その年の正月、父に実家を継ぐかと聞かれたのですが、断りました。4月に亡くなりましたので、ひどい息子だったなと思います。結果、34歳の時、実家の旭酒造を継ぐことになるのですが、収益はボロボロでした。

問 そこからどうやって立て直したのですか。

桜井 当時は「旭富士」という普通酒でしたので大幅値引き販売をしたり、いろんなことをやりました。しかしこのままの旭富士ではだめだと痛感、純米大吟醸に集中しようと思いました。

逆転の発想から生まれた獺祭

問 純米大吟醸はうまくいったのですか。

桜井 日本の酒づくりは杜氏なしではありえなかったのですが、その杜氏に逃げられました。杜氏は農家の人の副業で、寒くなると出稼ぎとして杜氏をやっていました。いい酒をつくろうという意識に乏しく、私の気持ちとズレができていました。1年に1回の仕込みで、夏は何もないのでビールをやろうと、地ビールレストランを始めましたが、これが大失敗。売上2億円の会社が1億9千万円の損失を出してしまいました。杜氏にも逃げられました。

問 大変なことになりましたね。

桜井 それなら杜氏なしで酒を造ろうと考えました。まさにゼロからのスタートです。経験のない若い社員だけでしたが、目標は高く100点でなくても良しとする荒っぽい方法で酒造りを研究しました。酒屋に研修に行かせず、全く独自に試行錯誤を重ねました。データやマニュアルをしっかり守れば、それなりに美味しい酒をつくれることがわかりました。属人化されていた杜氏の技術や勘が、徹底した数値管理で再現できるようになったのです。こうした乱暴な挑戦ができたのは企業規模が小さかったからだと思います。

問 酒造りの伝統を革新する大胆なチャレンジですね。そして獺祭が生まれたのですね。

桜井 既存の旭富士のブランドだと負け組ですから値引き販売を強いられます。そこで別ブランドで売ろうと。いろんな名前を考えましたが正岡子規の俳号の「獺祭」(だっさい)がいいと。我々の場所が獺越え(おそごえ)という地名でしたので丁度いいと、「獺祭」に決めました。90年のことです。

問 「獺祭」という難しくて読めない文字はインパクトが強く、一度聞いたら忘れられない名前ですね。この「獺祭」が今や日本だけでなく世界でも名高い酒となりました。

桜井 タイミングと「運」が良かったのでしょう。企業経営に運は大切です。成功に向かって頑張っている人にしか運は降りてこないといわれます。

問 運を引き寄せることも大切ですね。獺祭を語るとき、よく精米二割三分と聞きますが、これは難しいことなのですか。

桜井 山田錦という酒米を磨いていくのですが、普通50%まで磨けば大吟醸酒と言われます。獺祭は23 %まで磨いた「獺祭磨き二割三分」というものを造っています。これは日本一になりたかったからです。他社が二割四分ならウチはさらに下げようと。磨きの工程に時間がかかり大変ですから他社はやらないでしょう。雑味のないすっきりした味わいになります。

海外に活路を

問 獺祭は海外にも積極的に展開しておられます。最初はどこの国からですか。


桜井 2002年の台湾です。亡くなられた李登輝総統からの注文でした。祝いごとに正月に絞った酒をと注文してくれたのです。数本でしたが輸出第一号でした。その後米国を攻めようと、入社した息子をニューヨークに送り込みました。売れるようになるまで帰ってくるべからずと言い渡しました。


問 大変なミッションですね。


桜井 2年ほど駐在し、かなり頑張ってくれました。マーケットそのものが大きいこと、新しいもの好きでスノッブな層が多いことからこの市場はいけると思っていました。高級和食店が倒産、そこで働いていた料理人らが離散、自分たちの店をつくり始めたこと、そこにユダヤ資本が入り、200席くらいのオシャレな大型店ができていたこと、そうした店と獺祭は相性がいいのです。過去に銀座で高級居酒屋が流行り、そこで獺祭がかなり受け入れられました。この経験からニューヨークでも必ずいけると確信していました。


問 ニューヨーク郊外に獺祭の酒蔵を建設中とか。


桜井 市内から70キロほど北に行った場所に建設中です。本来ですと今年完成する予定でしたが、コロナで遅れているので、1年間ストップすることにしました。

三ツ星フレンチシェフと店舗を出店


問 NYは市場も大きいですから完成が楽しみですね。フランスパリではロブションさんと一緒に店舗を出されましたね。


桜井 ジョエル・ロブションさんとはモナコでお会いしました。宿泊したホテルのシェフのアドバイスで、獺祭の効き酒をしていただきました。そのときはウーンとおっしゃっただけでそのままになっていました。そして3年後、パリで一緒に店をやらないかとのお話しをいただきました。


問 天下の三ツ星レストランのシェフのお墨付きをいただいたのですからすごいことです。


桜井 それから出店場所探しに奔走しました。せっかくロブションさんとの店ですから、パリ市内でもいい場所でないと・・・。時間がかかりましたが結果、エリゼ宮に近いフォーブルサントノーレ通りの今の場所に決めました。


問 落ち着いたいい場所ですね。席数はどのぐらいあるのですか。


桜井 2階のレストランが24席、1階のカフェが20席、バーも10席あります。パリは和食がブームですから多くの方に来店いただいています。


問 獺祭のあのすっきりした味はフランス料理に合いますね。


桜井 ロブションさんからは「自分が作るフレンチに一番合うのは獺祭」と言われ、嬉しかったですね。来日されて山口の酒蔵をご覧いただきましたが、スイスの時計職人のような精密なつくり方をしているといわれ、一同感動しました。


問 ロブションさんをそこまで感動させる獺祭だからこそ、世界の人々に愛されているのですね。製造工程の温度管理など精巧な造り方に驚かれたことでしょう。


桜井 18年6月にパリの店をオープンしましたが、ロブションさんは病気を押してコックコートを着て店に立たれました。その2か月後8月にお亡くなりになりました。義理人情というか責任感というか、本当に素晴らしい方で、ご縁と運に感謝しています。丸の内の獺祭バーも収益には見合わないかもしれませんが私たちの世界観を伝え、社会に少しでも貢献したいという想いがあります。


問 海外にも果敢にチャレンジしておられますが、御社の売り上げと海外比率を教えてください。


桜井 昨年の売り上げは140億円、そのうち海外が34億円です。今、仏ワインの輸出総額が1兆2000億円ですが、獺祭はその1パーセントの120億円を目指します。活路を海外に見出しチャレンジしていきます。


問 海外はどこが一番売れているのですか。


桜井 やはり中国ですね。人の数が多いですからね。コロナ禍でもすでに中国は戻ってきています。

 来年はニューヨークの工場もできますから、運を味方につけ思いっきりアクセルを踏みたいと考えています。

ユニクロの柳井社長も応援

問 同じ山口県の出身としてファーストリテイリングの柳井正会長兼社長も応援しておられますね。

桜井 大変ありがたいことだと思います。

問 ユニクロの旗艦店オープンのときには獺祭の鏡割りで祝っています。11年、ニューヨーク五番街にユニクロのグローバル旗艦店を出店したときも、乾杯は獺祭でした。あの難しい名前は何と読むのかと思っていました。東京・銀座店のオープンのときも獺祭が登場しました。ユニクロの祝いごとには獺祭が欠かせないようです。

桜井 山口県には私どもだけでなく、たくさんのメーカーがありますので、大変ありがたいことで身が引き締まります。

問 柳井社長は獺祭の味はもとより、桜井会長のお人柄、大胆な発想力と行動力を応援されているのだと思います。獺祭の生みの親として、お酒造りで一番大切にしていることはなんですか。


桜井 どういうお酒を創りたいかという想いです。想いが一番大切です。お酒は味だけでなく重要なコミュニケーションツールです。誰とどんなシチュエーションで飲むのか。どんなグラスを使うかなど、楽しみが広がります。獺祭で多くの人々に幸せをお届けしたいと考えています。


Profile 
桜井博志(さくらい・ひろし)1950年、山口県生まれ。松山商科大学(現松山大学)卒業後、西宮酒造(現日本盛)での修業を経て、76年に旭酒造に入社。酒造りの方向性などで父と対立して退社。石材卸業を営むが、84年父の急逝を受けて家業に戻る。杜氏を廃し、データをもとに研究を重ね、純米大吟醸「獺祭」を開発。業界でも珍しい四季醸造を可能にした。海外展開に熱心で、「獺祭」を世界で愛される銘酒に育て上げている。

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