会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2016年6月号掲載)
日本全国の小中学校で講演を行う杉浦誠司の職業は「文字職人」。独創的な肩書を持つ杉浦は、親もその親も警察官という家庭に育ち、親の期待を背負い、自身も警察官になるべく生きてきた。その杉浦がいよいよ社会に出るという時に、警察官になることをやめる選択をした。その理由は、現代の子供たちの表情、大人しさにもつながっていく。現在、杉浦は文字職人となり、日本全国の小中学校で子供たちに講演をし、世界へと活動の場を広げている。「人は何のために生きるのか?」本質的、かつ哲学的なテーマを杉浦は子どもたち、かつて子どもだった大人たちに問いかける。
「文字職人」の仕事とは
年間100回以上、杉浦は小中学校で講演を行う。文化の日であったり、人権週間であったり、忙しい時には1日3校を回る日もあるという。報酬はボランティア、もしくはお足代ほど。この仕事を続けているのは、文字職人という仕事を通じて子供たちに「夢とは何か。仕事とは何か」という本質的なことを考えるきっかけにしてほしいからだ。インターネットを使えば欲しい情報はすぐ手に入る時代だからこそ、子供たちに「自分で感じて、考える」時間を大切にしてほしいと考えた。
相手は小学生。普通に話していたのでは集中力がもたない。
「私はお父さんもお母さんもその兄弟もみんな警察官。小さい頃から『警察官になりなさい』と言われて育ってきた。だから、警察官になるために勉強して、試験に受かった。けれども、もう少しで警察官になれるというときに、警察官になるのをやめた。私の夢は叶わなかったのかな?」と杉浦が問うと、子供たちは「叶わなかったー」と答える。「夢の叶わなかったおじさんの話、みんな聞きたい?」と聞くと、子供たちは「イヤー」と答える。
「大事なことをみんなに最初に伝えておきたい。私は警察官にはならなかったけど、実は夢は叶っているんだ。理由は後でわかるよ」、杉浦は体験に基づく笑いあり涙ありのエピソードで小学生たちの心を掴む。
厳格な父親との確執
警察官採用試験に合格した杉浦は、春休み中にいろんな職業を体験しようとアルバイトを始めた。ファーストフード、ガソリンスタンド、駐車場の誘導など。中でもナゴヤドーム駐車場で誘導係をしていた時の出来事が印象深い。仕事内容は単調で、若い杉浦にとってはつまらなかった。少しでも楽しもうと、杉浦は誘導灯を振り、笛を吹き、踊ってパフォーマンスをしながら交通整理をし始める。同僚からは白い目で見られたが、経営陣の一人がそんな杉浦の行動に目を止めた。
当時、ナゴヤドームのキャラクター「ドムラ」が誕生、なんとその着ぐるみを被り球場内でのパフォーマンス役に抜擢される。
「当時オリックスで活躍していたイチロー選手と球場で相撲を取ったこともあります」
杉浦はこの経験から「仕事というのは楽しんでいたら、楽しませてもらえるようなことが、次から次へとやってくる」ことを知り、親の期待に沿って警察官になろうという気がすっかりなくなってしまった。
ことあるごとに厳しく怒られてきた警察官の父親に、勇気をもって杉浦は告白する。「警察官にはならない」。案の定、父親は激高し、杉浦は着のみ着のままで家を飛び出した。持ちあわせの金も尽き、心配した母親からの電話に応え、杉浦は一時帰宅する。帰宅した杉浦を父親は待っていた。きっと殴られるという杉浦の予想に反し、父親は「ここにお前の夢を持ってこい」。
意味が解らず、また自分の夢もわからなかった杉浦は、迷いに迷い、ふと目に留まった「あなたの夢がここにあります!」と書かれた家電量販店のちらしを手に父親に言った。「これが俺の夢です̶̶」と。
初めての父親への反抗。父親にありのままの自分自身を認めてほしいという期待。父親はひと言「わかった。これがお前の夢というのなら、黙ってやれ」。そこから杉浦の数々の職の遍歴が始まった。
何もかも失ったからこそ
そのまま、苦し紛れに出したちらしの家電量販店に就職。売上を大幅にあげ、店長賞も受賞した。次に塾講師に転職。生徒に熱烈に慕われ勉強嫌いの生徒がどんどん意欲的になっていった。そこも成果を出して辞めてしまう。ドラッグストア店長や外資系保険会社でも営業成績は抜群で高給取りになり、高級腕時計や高級スーツを身に纏い、金遣いが荒くなった。そして、ついに独立を果たす。しかし、事業は失敗し無職に。残ったのは数千万の借金だった。妻に食べさせてもらうことは、惨めで耐えられない。一刻も早く仕事を探そうとしていた杉浦の背中に妻が声をかける。
「せっかく何もかも失ったのに、今さらやりたくもない仕事を探す気なの。ゼロになった今こそ、あなたが本当にやりたいことをやればいいじゃない」
早く職を探して借金を返さないと怒られる、と思い込んでいた杉浦は妻の言葉に驚いた。その時、杉浦の頭にひとつのアイデアがあった。仕事になるかどうかもわからない。でもこのアイデアに杉浦は励まされてきた。可能性に賭けてみたい、と。それが「文字職人」への道だった。
「文字職人」への道
人通りの多い道にゴザを敷き、「金額は気持ちでいいですから」と杉浦は文字を書き始めた。「ありがとう」という平仮名で構成された「夢」という漢字だ。書道の経験がない杉浦。油性マジックでレタリング(文字装飾)のように書いていた。他にも「きりひらく」というひらがなを組合せた「道」、「しんらいする」で構成された「絆」など。杉浦が平仮名を組み合わせて漢字を作る「めっせー字」が次々生み出された。ある人に「これ面白いから個展をやりなさい」と勧められ、そこで初めて筆を握り、書道ではない文字を書き始めた。
杉浦が「めっせー字」を書き始めたきっかけは、人生の師と仰ぐ人物に言われた言葉であった。事業に失敗し、師匠のもとを訪れ、「どうしてこんな目にあうのか」と泣き言をいう杉浦に、師曰く。「杉、それはお前が感謝していないからだ」と。「お言葉ですが、そんなことはありません。人にしてもらったらありがとうと伝えているし、お返しも欠かしません」と反論した。師はその言葉を笑い飛ばし、こう言った。「杉、それは全て『お礼』だ。当たり前と思っていることに手を合わせることができてこそ、『感謝』なんだ」。
雷が落ちたような衝撃だった。感謝できていると思っていた自分が恥ずかしく、その夜は泣きながらひとつひとつに思いを巡らせ「ごめんなさい」「ありがとう」と繰り返す。感謝の謝の字は「謝る」という言葉だということに気付いた。眠りにつこうとしたその時、まぶたの裏に閃光が走り「ありがとう」「夢」の文字が浮かび、枕元のメモに書きとめた。翌朝、そのメモを眺めているうちに、二つの文字が重なり、「夢 ありがとう」の文字ができあがったのだ。
弱点を武器に変えた時の強さ
外資系の保険会社に上手く話すことが出来ない吃音の同僚がいた。入社前の研修でも卒業できず、先輩社員たちは売上ランキングでは最下位を予想していた。ところがふたを開けてみたら、その吃音の彼が一番の営業成績を上げ、その後も新人としては驚異的な成績を続けたのだ。
これはもしかしたら妙な売り方をしているのかもしれない、と心配した先輩たちが彼を呼び出し、会議室で販売のロールプレイングを行った。会議室から出てきた先輩はうっすらと涙ぐみ、「これはすごい。これは売れる」。
興味を引かれた杉浦もロールプレイングに参加して、同期の彼の凄さを味わった。吃音の彼は話すことが苦手だからこそ、相手に話させるという技を身に着けていた。相手に気持ち良く話してもらうには、相槌、頷き、間のとり方、とりわけずば抜けていたのは質問する力だった。
吃音という自分の弱点を武器に変えることができていた彼の実績は本物。求めているものは同じでもアプローチの仕方で結果が異なるのだ、と杉浦は言葉の力を思い知った。
「ジャンケン」と「人権」
杉浦は2015年の秋に「負けないで」というタイトルの本を出版した。杉浦の体験や、これまで出会ってきた人々との心が震える感動的なエピソードが集められている。
その中のひとつを紹介したい。美術大の学生人に「怖いリンゴを描いてください」という企画があった。完成したリンゴの絵は裂けた口やつり上がった目など、どれも似たような絵だった。そこで「リンゴそのものは変えずに怖いリンゴを描いてください」と条件を付けると、高所からリンゴが落ちる絵など、物語性が加わり、同じような絵は一枚として描かれなかった。
「制約を与えた瞬間、個性が生まれた」ことに杉浦は気づく。自由でなければ個性が出せないのではなく、制約やルールがあるからこそ、自分の魅力、アイデア、個性が生み出され、発揮される。
平仮名を組み合わせて漢字を作るという制約があるから、そこには杉浦の個性が生まれる。人生の逆境を味わい、人の縁や優しさに触れ、文字が元気や勇気を与えてくれることに気付いた杉浦は、文字職人として生きていくことを決意した。
杉浦自身が親の期待に沿って育てられてきたように、今の子供たちの多くも自分がやりたいことではなく、親の理想通りに生きていくこと、人の顔色を窺って生きていくことが当たり前になってしまっている。
人は勝つように教育、習慣づけられている。その証拠に、後出しジャンケンをしてみよう。勝つことはたやすいが、負けることは思いのほか難しい。「じゃんけん」から「ゃ」を抜けば「じんけん」だと杉浦は講演で語りかける。「じゃんけん」と「人権」は実は似ている。じゃんけんはどれが最強でも最弱でもない。勝てる相手もいれば負ける相手も必ずいる。人間も同じじゃないかと。
多くの人は見えない敵と戦いすぎている。制限やルールがあるからこそ生み出される個性もある。自分の大切なもの、自分が生かされていることを知ることで、人は充実した人生を生きることができるのだと、杉浦は生気にあふれた瞳で語った。