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【緑の地平vol.23】 三橋規宏 千葉商科大学名誉教授

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

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水素社会の足音が近づいてきた

(企業家倶楽部2015年4月号掲載)

トヨタ、燃料電池車「MIRAI」発売

 トヨタ自動車は昨年12月15日、世界初の市販の燃料電池車(FCV=fuel cell vehicle)、「MIRAI」(ミライ)を発売した。税込み価格は1台約723万6千円だが、政府のエコカー補助金(約202万円)を合わせると、購入時の消費者負担は約521万円になる。10年前には1台1億円だった。ホンダも今年度中にセダン型FCVを発売、さらに日産、独ダイムラー、米フォードの3社も17年の発売を目指し共同開発を進めている。米GMもホンダと組んで20年の発売を計画中だ。

 世界の大手自動車メーカーが一斉に燃料電池車の生産に乗り出してきたのは、走行時に温暖化の原因になるCO2を一切排出しない「究極のエコカー」であるからだ。

 燃料電池車はエンジンとガソリンタンクの代わりにモーター、燃料電池スタック(発電装置)、水素貯蔵タンクを搭載する。外部から取り込む酸素とタンク内の水素を触媒や電極などを重ねた「セル」に送り込み、化学反応を起こして電気をつくる。生成された電気がモーターとバッテリーに伝えられ車を動かす。車外に排出されるのは無害の水(H2O)だけで排ガスは一切発生しない。ガソリンや軽油に代って水素を燃料にすれば、温暖化リスクを取り除くことができる。

 歴史を振り返ると、20世紀は炭素(C)エネルギーの時代だった。石炭や石油に代表される炭素エネルギーは、安価で大量に存在し使い勝手もよかったため、発電やボイラー、自動車の燃料として大量に使われ、経済発展に大きな貢献をした。だが、その一方、炭素エネルギーは、燃焼時に大量のCO2を発生させる。大気中のCO2濃度が高まると地表の温暖化が促進され、気候変動に様々な影響を与える。猛暑、豪雨、巨大化する台風、干ばつ、海面水位の上昇などは温暖化が引き起こす異常気象に原因がある。

水素エネルギーへ転換

 主要エネルギー源を炭素から水素へ転換させることができれば、温暖化リスクから解放される。しかしこの転換のためには技術面、供給面、安全面などで乗り越えなくてはならない課題が山積している。科学者の中には、炭素から水素エネルギーへの転換は大きな時代の流れだが、実用化のためには100年単位の時間が必要だと指摘する者もいる。今世紀中はとてもムリだと考えられてきたが、トヨタの燃料電池車「MIRAI」の発売を機に、遥か先と思われていた水素社会がぐっと手前に引き寄せられた。

 世界に先駆け、日本が先導する水素社会への挑戦は様々な新しい関連産業、技術を生み出し、デフレに苦しむ日本再生の大きなチャンスになる。その動きがここに来て加速してきた。

 年明け早々の「サプライズ」は1月5日、トヨタ自動車が燃料電池車の関連特許約5680件を無償で公開する、と発表したことだ。米ラスベガスで開かれた世界最大の家電見本市「コンシューマー・エレクトロニクス・ショー」の開幕に先立ち、記者会見で発表した。自動車大手が次世代技術の特許を不特定の企業や団体にすべて公開することは極めて珍しい。特許の中には燃料の水素と空気中の酸素を化学反応させて電気をつくる基幹部品「スタック」関連の約1970件などを含む約5610件は2020年末までの特許実施権を無償にする。また水素ステーション関連の約70件の特許は公共性が高いため、無期限で無償提供するという大胆なものだ。

トヨタの本気度が政府や関連業界に刺激

 トヨタが虎の子の燃料電池車特許の全公開に踏み切った最大の理由は、潜在需要の大きいFCV市場を拡大させていくためには、1社で特許を独占するよりも、逆にライバルメーカーにも積極的に参加してもらい、短期間に市場を拡大し、普及に必要な水素ステーションなどのインフラ整備を整えたいとする戦略がある。

 このような戦略を打ち出した背景には、同じエコカー、ハイブリッド(HV)車「プリウス」の販売戦略に対する反省がある。HVの場合はコア技術を特許で守り、他社を寄せ付けない強さを維持してきた。マツダや富士重工などに技術を提供したが、この場合はいずれも有償だった。トヨタの技術部門内部には巨額の費用と歳月を費やして開発した技術を守りたいとの技術者の気持ちが強かった。このため、HVは日本以外ではほとんど普及しなかった。米調査機関、HISオートモーティブによると、昨年(14年)の世界の自動車生産は約8700万台だが、HV比率は2%に止まっている。技術を抱え込んでしまったため、せっかくの名車の普及が制限されてしまった。

 FCVの普及は政府や関連業界の支援が欠かせない。たとえば、ハイブリッド車の場合は、既存のガソリンスタンドを利用できたが、FCVの場合は、新たに水素を供給するための水素ステーションをつくらなければならない。ガソリンスタンドの建設費は一カ所1億円程度だが、水素ステーションの場合は4億から5億円かかるとされている。政府もFCVの将来に大きな期待を寄せており、今年度中に水素ステーションを100カ所設置する目標を掲げている。
 
水素供給体制にも新たな動き

 FCVの燃料、水素の安定供給にも新たな動きが出てきた。水素を取り出す究極の方法は水の電気分解が望ましいが、まだ量産化の技術は確立していない。現実的な対応としては、天然ガスや石炭から取り出す方法だ。たとえば、プラント大手の千代田加工は天然ガスから水素を取り出す技術開発に取り組んでいる。同社は水素をトルエンと反応させて液化し、常温常圧で大量輸送する技術を持っている。このため中東などで安い燃料を使い、水素の大量生産を計画している。川崎重工は「褐炭」と呼ぶ低品位の石炭をガス化して水素を取り出すプラントの開発でJパワーと協業する。石炭を効率的にガス化して発電燃料にするJパワーの技術と川崎重工のプラント設計力を組み合わせる。褐炭は価格の安いオーストラリア産を活用する。両社とも20年頃までに実用化し、20年代半ばには水素の卸売り価格を1立方メートル当たり30円程度にすることを目指している。

 このほか、東京都では20年の五輪に合わせて、「水素社会」東京を世界の人々にアピールするため、選手の送迎用などを含めFCV6千台、水素ステーション35カ所の設置を目指している。

 水素社会の足音は、ここに来て急速に大きくなってきたようだ。

プロフィール 

三橋規宏 (みつはし ただひろ)

千葉商科大学名誉教授

1964 年慶応義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010 年4月から同大学大学院客員教授。名誉教授。専門は環境経済学、環境経営論。主な著書に「ローカーボングロウス」(編著、海象社)、「ゼミナール日本経済入門24版」(日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「環境経済入門第3版」(日経文庫)など多数。中央環境審議会臨時委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など兼任。

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