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【編集長インタビュー】ホットランド 代表取締役 佐瀬守男

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

川上から川下まで一気通貫

(企業家倶楽部2015年4月号掲載)

ホットランドは銀だこを主軸に成長を続けているが、ただのたこ焼チェーンと思ったら大間違い。同社を率いる佐瀬守男は、遠くアフリカは西サハラの雇用を見据え、商品を作る際には川上の原料まで自前で調達しようとこだわる。その視野の広さには驚くばかりだ。いかに世界に雄飛しようとしているのか、その事業にかける情熱を聞いた。(聞き手は本誌編集長 徳永健一)

ハイボール酒場で大ブレイク

問 主力事業の銀だこをはじめ、躍進を続けていますね。

佐瀬 私たちは2009年より、都市部への出店戦略を進めてきました。ただ、オフィス街や繁華街でたこ焼を売っても、なかなか採算が合いません。特に夏場はたこ焼が売れない。何か無いかと思案して10年に作ったのが銀だこハイボール酒場です。私たちと縁の深いサントリーさんにご協力いただき、たこ焼をお酒と組み合わせて提供できないかと思案を重ねました。そして辿り着いたのが、強い炭酸で薄くウイスキーを割り、レモンを軽く絞ったハイボールだったのです。

 一店舗目は新宿の歌舞伎町。土地柄深夜営業にしたいと考え、10坪の狭いスペースに立ち飲み形式のお店を作りました。周りは「たこ焼をつまみにハイボールなんか飲むわけがない」と反対しましたが、これが何の宣伝も無しに売れたのです。そこに女優の小雪さんが出演するサントリーさんのCMがヒットし、さらに勢いが増し、ハイボールブームが訪れました。

 これを受け、即座に2店目を出しました。場所はサラリーマンの聖地、新橋。これも15坪ほどの小さな店でしたが、大ブレイクしました。当時は新橋駅に電車が止まると、「ウィスキーがお好きでしょ」でお馴染みのメロディーを発車音で流してもらう手の込みようで、応援いただきました。

問 当時はブームに火が付いたような形でしたね。

佐瀬 私たちの既存店にも目に見えて良い影響が出始めました。たこ焼は間食というイメージが強かったのですが、お酒のおつまみとしての需要が拓かれたのです。自然、店舗数も拡大を続けました。

 ところが、今度はあまりに売れすぎたせいで角ハイボールが品薄状態になってしまいました。そこでサントリーさんが発表したのがトリスハイボールです。私たちはこのトリスハイボールの発売に合わせ、短期間で新しいお店を出すことを決意しました。タイトなスケジュールの中でアイデアを出し合った結果、浜松町にあった大きな駐車場を1年契約で借り、トレーラーハウスを改造して並べることに。こうして出来たのがハイボール横丁です。

 私たちは、たこ焼を売る銀だこの他にもやきとりのほっと屋など様々な業態を展開していますから、それらを並べて立ち飲みでハイボールを飲めるようにしました。すると、なんと初日に売れたハイボールが1800杯、ビールも800杯。暑い夏でしたが、この銀だこハイボール酒場が牽引役となり、10年は売上、利益共に過去最高を記録しました。

タコの調達危機を乗り切る

問 絶好調の10年を終え、そのまま順風満帆かというときに起こったのが、東日本大震災ですね。

佐瀬 そうです。僕らは北関東発の会社ですから、東北に約50店舗、北関東を合わせると約150店舗近くの店がありました。これらの営業は全て止まり、会社が潰れるのではないかと本気で心配したほどです。

問 どのような施策をとられたのでしょうか。

佐瀬 会社のことだけではなく、まずは何よりお客様と社員を安心させるため、営業再開に向けて奔走しました。また同時に、我々が提供する「食」を通じて、被災地の皆様に何か貢献したいと思い、ボランティア活動で使っている銀だこカーで石巻を回り、アツアツのたこ焼を振る舞うボランティア活動も開始しました。営業再開と被災地支援のため、社員一同、寝る間も惜しんで動きました。

問 ボランティア活動の手応えはどうでしたか。

佐瀬 連日長蛇の列ができ、多くの方々に笑顔と安らぎをお届けすることができたと思います。しかし、現地で同時に思ったことは、一過性のボランティアでは、被災地の「支援」はできたとしても、本当の意味での「復興」には繋がらないということでした。「ここに何かを残したい」、そこで我々は、被災地の産業復興と雇用創出を目的とした復興商店街「ホット横丁石巻」の開業を決意し、事業に専念するため、石巻に本社も移しました。

問 その話を伺った際は驚きました。

佐瀬 しかし、石巻で復興事業に取り組んでいる間に、もう一つの大事件が起こっていたのです。それは、タコの世界的な供給不足と、取引価格の高騰でした。私は石巻に本社を移して、そちらしか頭にありませんでしたが、東京に残って銀だこを守っていたメンバーは、タコと戦っていたのです。

 私たちは、年間約3000トンの真ダコを扱っています。これは、日本に入ってくるタコの総量から見ても、かなりの割合を占めます。しかし、その量が用意できず、値段が倍くらいに高騰した状態でした。

問 それほどとは知りませんでした。どのようにして、その状況を乗り越えたのですか。

佐瀬 我々は二つの決断を下しました。一つは、それまでほぼ商社任せだったタコの調達を自前で行うべく、世界中のタコを探しに行くというプロジェクト。そしてもう一つがタコの養殖プロジェクトです。

問 順番にお聞かせ下さい。

佐瀬 まずは、自前でタコを探しに行くプロジェクト。例えばスリランカにタコがいるという情報を得れば、まず私が飛んでいきます。イカ1匹しか捕れないなんてこともありましたが、そうした情報で約10か国は回りました。

問 フットワークが軽いですね。

佐瀬 自分の目で見て分かったのは、実は、タコは世界のあらゆる海域で捕れるということです。でも現地の人たちには捕り方が分からない。日本、スペイン、イタリアが三大消費国で、今はヨーロッパでも少しは食べられるようになっていますが、いかんせん捕っても食べている国が少ないので売れないのです。売れないものを捕らないのは当たり前という話でした。

 ただ、私たちがたこ焼を世界に広め、捕り方をしっかり教えて買い付ければ、タコは安定的な資源として供給可能だと分かりました。

問 タコの養殖についてはどうでしょう。

佐瀬 我々が被災地復興事業を行っていた石巻は、日本有数の漁業・水産加工業の拠点でもあり、その水産技術のレベルは世界屈指です。そこで、同地の自治体、大学、漁協などと連携し、タコの完全養殖を実現できないかと考え、プロジェクトを開始したのです。

 このプロジェクトでは、現地に石巻水産研究所を設立し、世界初となるタコの陸上産業養殖に向けた研究を行っています。現在では、ここで得た技術を基に、今度は熊本県天草市と提携、本格的な産業養殖を目指して、事業を継続しています。実現すれば、タコの調達コストも削減され、安定した数量確保にも繋がってゆく取り組みです。将来、「天草産」銀だこブランドダコがスーパーに並んでいるかもしれませんね(笑)。

タコを世界的な食材に

問 夢は大きいですね。今後は世界各地の漁場からの調達と養殖技術によって、安定した調達を見込めるわけですね。

佐瀬 はい、最終的には世界中の漁場で、漁法・加工法・養殖技術を広め、安価な漁業コストと安定した漁獲高を実現し、タコを世界中で食べられる食材にしたいと考えています。実は先ほどお話した価格高騰の原因ですが、これは大型のトロール船による海底環境の破壊が影響していました。近年、主に西アフリカで行われ始めたトロール船による網漁は、海底のタコの棲息環境を破壊してしまい、結果として漁獲高が徐々に減少し、需給バランスが崩れてしまったと言われています。

 しかし、西アフリカでタコ漁が始まった1970年代から近年に至るまでは、日本のJ ICAの支援の下、環境に優しいツボ漁が教えられ、ツボタコが水揚げの殆どを占めていました。その結果、漁獲高も価格も長く安定していたのです。

 我々はこのツボ漁を大切にし、養殖技術と組み合わせることによって、タコを世界中の漁場から安定的に、そして安価に調達したいと考えています。これによって、タコを世界の人々が食べられる身近な食材に育ててゆきたいと思いますし、その結果、世界の雇用問題や食糧問題解決にも繋げたいと考えています。

問 たこ焼を広めるということですか。

佐瀬 はい、しかしたこ焼のことばかり考えているわけではありません。例えば、タコを煮ると煮汁が出ます。通常はこれを捨てているのですが、実は生成するとタウリンという高価値の成分がとれます。

 また、タコは高タンパクで低カロリー。ビタミンEも豊富で、こんな良い食材はありません。ところが世界中でタコを食べているのは日本、スペイン、イタリアの三カ国。世界40カ国の方々を集めてたこ焼の大試食会をやったことがありますが、40か国中39カ国の方に10点満点中10点の評価を付けていただきました。おいしい調理法をしっかり伝えられれば、タコは全世界で食べられる可能性を秘めた食材なのです。

川上にもこだわる

問 御社の特徴となっている部分をお教え下さい。

佐瀬 先ほどのタコの話もそうですが、「店舗」で完結するのではなく、その川上や川下まで視野を広げて事業に取り組むのは、弊社の特徴になっていると思います。原材料から機械、店舗、お客様まで、一気通貫して全て自社でまとめる。それにより、小さい店舗でたこ焼、たい焼といった単品のみを扱い、それをお客様の目の前で作ることを是としているのです。

問 川上から川下まで見ていく上で、具体例はありますか。

佐瀬 例えば、たい焼を事業化した際には、まずは十勝に赴き、良質なあずきを生産する農家を訪ねて回り、調達契約を結びました。次に、自社工場にあんこの生産ラインを敷きました。そして、たい焼を焼く機械も開発して特許を取る。そこまで来てようやくお店を出し、特化型の強い単品を作るという具合です。

 作りたい商品があっても、市販の機械ではできないことが多々あります。たい焼の場合、あまり焼くとあんこの水分が飛んでしまうので、できるだけ短時間で両面から蒸し焼きにしたい。すると、弊社のエンジニアリング部門が商品ありきで機械を作るわけです。

問 なるほど。そのこだわりは、最近グループ化したアイスクリーム事業等にも活かされていますね。

佐瀬 はい、アイスクリーム事業に関しても、考え方は同じです。例えば、アイスクリーム事業では、当社が買収する前は、各店舗で大型の機械を持ち、牛乳を仕入れてアイスクリームを作っておりましたが、その分店舗面積が大きくなり、経営効率上の課題がありました。

 そこで私たちは買収後、アイスクリームの製造工程を自社工場に集約し、より効率的に店舗へ供給する川上のサプライチェーン作りから開始していきます。また今後は使用する牛乳、できれば牛を育てるところからこだわり、品質面、数量面、価格面で競争力を向上させたいと考えています。

ほっとする場を提供

問 商品を絞るようにしたきっかけは何でしょう。

佐瀬 創業当初、「和のファストフード」というコンセプトを掲げ、焼きそばとおむすびを中心としたメニューを提供していましたが、試行錯誤の内に、メニュー数を増やしすぎ、悪循環に陥ってしまった時期がありました。

 注文が来たら即座に出せるのがファーストフードというイメージがあり、そのためにはメニューにある商品を作り置くしかない。店にはホットショーケースを備え、色んなものを並べましたが、売れなくて干からびていく。すると、ますます売れず、メニューを増やすという負のスパイラルです。

 これは違うと思い、一つに絞ろうと考えました。お客様を見ていると、ファーストフードでも出来立てアツアツの商品を欲しがっている。せっかくの実演販売ですから、作っている工程の楽しさやワクワク感を前面に出した方が良いのではないかとも考えました。また、そもそも美味しくなければ食べてはもらえません。こうした自問自答を繰り返した結果、焼きそばもおむすびも止めてたこ焼1本に絞ったのです。もちろん、皆は大反対しました。

問 売れている商品を捨てる判断は難しいですよね。また、たこ焼というと関西のイメージが強い商品を扱った所も大胆に感じます。

佐瀬 関東ではお祭りくらいでしか食べる機会がなく、25年前にはたこ焼チェーン自体存在しませんでした。

問 たこ焼作りは習ったのですか。

佐瀬 方々で食べ歩き、研究を重ねました。「築地銀だこ」は、築地によくタコの勉強をしに行っていた経験と、いつか銀座に店を出したいという思いから名付けています。

 開発時、私がこだわったのは、「家に持ち帰ってもアツアツで、家族や仲間と食べられる」という点です。テイクアウトしてもアツアツでパリッとしており、タコは柔らかい。そんなたこ焼を作りたかったのです。

問 いまや日本でたこ焼チェーンと言えば、銀だこ以外思いつきません。

佐瀬 私たちは主食マーケットは攻めません。これだけ乱立している中で入っても、日本では勝てないからです。だからこそ、間食としてたこ焼、たい焼、アイスクリーム、コーヒーを展開しています。ほっとした場所でほっとする商品を提供したい。

問 ホットランドという社名の由来ですね。

佐瀬 そうです。1号店目の焼きそば屋からホットランドという名を使ってきました。

問 今後の抱負をお聞かせ下さい。

佐瀬 創業時から、しっかりした会社を創ろうという思いは強かったですね。弊社の社員は、本当に日本一美味しいものを提供しているという気概を持って働いています。プライドを持って働く彼らのためにも、一店の飲食店から世界的な外食産業へ発展させたい想いが強くありました。14年のマザーズ上場はその延長線上です。

 これからも、もっと美味しい商品を作って、もっとお客様を笑顔にして、社会貢献の観点でも力を発揮できる会社にしていきたいですね。

p r o f i l e

佐瀬守男(させ・もりお)

1962年群馬県桐生市出身。東京YMCA 国際ホテル専門学校卒業。1991年にやきそばとおむすび専門店のホットランドを設立。97年、たこ焼店に特化した「築地銀だこ」の1号店をオープン。2004 年、香港を皮切りに、海外出店を行う。2014年に東証マザーズに上場。

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