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【ベンチャー三国志】Vol.2

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

1枚の写真に魅せられてソフトバンクを創業

1枚の写真に魅せられてソフトバンクを創業

(企業家倶楽部2010年8月号掲載)

カリフォルニア大学に入学

 抜けるような紺碧の空。夏の陽光が燦燦と降り注ぐ。カリフォルニアのさわやかな風が少年の肌を優しく撫でる。

「ウオーッ!」

 両腕を高く天に突き上げて、少年はわけのわからない歓声をあげた。

 ー遂にアメリカに来たバイ! 坂本龍馬も吉田松陰も果たせなかった「メリケン上陸」を俺は果たした。ここが気に入った。誰がなんと言おうと、俺はアメリカに留学する。

 1973年夏、孫正義は高校1年生の夏休みを利用して、米国に4週間の語学研修に出掛けた。カリフォルニアは孫少年を暖かく迎えた。空も海も風も少年を優しく包み込み、人々はフランクだった。言葉はチンプンカンプンだったが、人種偏見もなく、人々は明るく親切だった。日本では味わったことのない本当の自由と開放感を初めて味わった。

 既に事業家になることは心に決めていた。どうせ事業家になるのなら、世界を股にかけた大事業家になる。それなら、米国の大学に進み、語学と最新の経済・経営学を学びたい。孫は渡米してすぐに決断した。

 帰国後、母親に米国留学を告げた。母は仰天した。父親は病床に伏していた。学校関係者も反対した。しかし、孫は、九州の名門進学校である久留米大学附設高校を退学して米国留学すると宣言した。「せめて、休学にして渡米してはどうか」と家族も先生たちも説得したが、孫は「ワシは意思が弱い。途中で挫けるかも知れん。退路を断たなければ、逃げ帰ることになる」と頑として受け入れなかった。坂本龍馬の脱藩の心境である。

 当時の模様を孫は2010年3月に5000人の来春新卒予定者を前に次のように語った。「アメリカではめちゃくちゃ勉強しました。ここに5000人近くの人がいますが、僕より勉強した人はいない。なぜ、そう言えるのか。途中で肺炎になっても気がつかないくらい咳をしながら、教室の前列のど真ん中に座って授業を受けました。トイレに行くときも、道を歩いている時も教科書から目を離しませんでした。寝てる以外は全て勉強した」

「はじめ高校1年生として入学した。1週間で校長先生に掛け合って、高1はもういい、2年生に進級させてくれ。3日間で高2の教科書を全部読んで3年生の教科書を全部くれと言って、3年生に進級させてもらった。また、3日間で3年生も卒業、大学に入学しました。2週間で高校を卒業しました。大学では死ぬほど勉強しました」

1枚のカラー写真が運命を変える

 そして運命の時を迎える。孫20歳の時である。カリフォルニア大学バークレー校構内を歩きながら、ある科学雑誌に目を通していた。その時、1枚のカラー写真が目に飛び込んで来た。

 はじめ、その写真は未来都市の設計図か何かのように見えた。しかし、それが超LSI(大規模集積回路)の拡大写真だと説明書を読んで分かった時、孫は電撃に打たれたような衝撃を受けた。

 全身が指先までしびれて、震えが止まらず涙がボロボロと出てきて止まらなかった。「人類は何と凄いことをするんだ。人類は初めて自らの脳を超えるかもしれないものを作った!」その瞬間、孫の脳裏には、20年後のコンピューター社会が鮮やかに映し出されていた。

 ここが、孫正義という男が一般のベンチャー企業家と異なる点である。一つの事象に遭遇した時、その事象の持つポテンシャリティを瞬時に推し量り、未来を予測することが出来る眼力を持っている。俗に遠目が利くのである。

 それからの孫は超LSIの写真を恋人からの手紙のように大事にポケットに忍ばせ、時々、見てはひとりほくそ笑んでいた。傍から見れば、気でも狂ったのではないかと見えたのではないか。

 同時に、コンピューター分野で事業を興すことを心に決めた。孫は幼少の頃から事業家になることを決めていた。

 まだ、小学校に上がるか上がらないかの頃である。正月になると、親戚の者が孫の家に集まり、1年間の報告や新年の抱負を語り合う。その中心にはいつも父親の三憲(みつのり)がいた。三憲は親戚の長(おさ)として、事業の展開方法などを教えていた。

 その三憲が「正義は天才だ」と口癖のように言う。孫は「叔父さんたちが100人の社員を雇っているなら、俺は1万人は雇えるな」と幼心に思っていた。栴檀(せんだん)は双葉より芳しい、と言うが、孫は小学1年生で社員1万人の企業家を夢見ていた。

 そして20歳の時、1枚の超LSIの写真にめぐり合って、自分の登るべき山の方向が定まった。あとは、具体的な事業プランを立て、登る山をはっきりと決めるだけである。孫はその日から、大学ノートに事業プランを書き綴った。約40プランほど作り、その中から一番将来性のある事業プランを選んだ。パソコンソフトの卸業である。社名も「日本ソフトバンク」と決めた。

 しかし、すぐに日本で創業したわけではない。大学在学中に「ユニソンワールド」という会社を設立、翻訳機の原型のようなものを開発した。出来高払いで大学教授を社員に雇い、翻訳機を開発した。試作機を日本のシャープに売り込んだ。当時、同社で開発を担当した専務の佐々木正が試作機を見て採用を決定した。当時の金額で約1億円。めでたく大学教授らに給料を支払うことが出来た。

 孫はこのまま米国で事業を展開することも考えた。しかし、どうもしっくり来ない。言葉の違いなのか、文化の違いなのかは分からないが、会社としての一体感が感じられない。九州の家族からも帰国を促す声が相次いだ。そこで、大学を卒業したのを機に一旦、日本に帰ることにした。帰りの飛行機から眼下の米国大陸を見下ろしながら、孫は心の中でこう叫んだ。

「アイ・シャル・リターン(きっと戻ってくるぞ)」。GHQ最高司令官、マッカーサー元帥が日本軍の攻勢にあい、一時フィリピンから撤退を余儀なくされた時に吐いた一文を、孫は口ずさんでいた。

福岡市雑餉隈の創業の地

社長室で経営データを見る孫正義(1995年9月)



福岡県のトタン屋根の事務所で創業

 1981年3月、孫23歳の時、九州の福岡県雑餉隅で創業した。雑餉隅は現在は福岡市竹丘町となっており、福岡市のベッドタウン。中心地の天神から西鉄大牟田線に乗り、6番目が雑餉隅で、孫の創業の地は駅から5分程歩いた道筋にある。今は3階建てのビルに建て替えられており、1階はソフトバンクモバイルの店舗になっている。

 孫が創業した年(昭和56年)はどんな状況だったのだろうか。国際政治では、ロナルド・レーガンが第40代米国大統領に就任(1月20日)、韓国では総選挙が行われ、全斗煥大統領の民主正義党が安定過半数を確保した(3月25日)。英国ではチャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式が盛大に行われた(7月29日)。

 コンピューター産業界では、米IBMが君臨しており、富士通、日立製作所、日本電気などの国産勢が巨人IBMに対抗意識を燃やしていた。超大型コンピューターの全盛時代で1台10億円もするコンピューターが1年で150台も売れた。

 同時に、パーソナルコンピューター(のちのパソコン)も前年比3倍という爆発的な売れ行きを見せた。大型機・小型機共存の時代であった。日本経済は昭和40年代の高度成長期を終えて、安定成長期に入っていたが、コンピューター業界だけは発展・拡大期を迎えていた。そんな時期にソフトバンクは呱々の声を上げた。

 ベンチャー企業を興す場合、事業領域をどこに定めるかは特に重要である。どんなに優れた経営者でも、これから衰退する産業を事業領域とすれば、急成長はおぼつかない。まず、事業領域を決めることが、その企業家の才覚そのものと言える。その点で、孫は素晴らしい嗅覚を持っていた。

 父親が所有していたトタン屋根の2階が事務所。創業の初日、孫はリンゴ箱の上に乗って、2人のアルバイトを前に「施政方針」を演説した。

「日本ソフトバンクは5年で売り上げ100億円を達成、30年後に1兆、2兆円と数えられる会社になる。豆腐屋の心意気だ!」と精一杯大風呂敷を広げた。

 しかし、孫の心意気はアルバイト諸君には通じなかった。こんな誇大妄想の男には付いて行けないと思ったのか、1週間ほどで辞めて行った。30年前に田舎町で年商10億円を達成するのも並大抵の努力ではない。その千倍の売り上げをこんな小柄な男が実現しようとは、誰も思わなかった。アルバイトの学生が孫の能力を見抜けなかったのは無理もない。企業家でさえも、見抜けなかった。

テレビ番組で鼎談する3 人。左から孫 正義、大 直人(オンキョー名誉会長)、林 武志(2000年3月)

2人の企業家の壮絶な出会い

 創業8年経った頃だ。孫は親しくしていた自民党代議士、岩屋毅の紹介で、朝日ソーラー社長の林武志と会うことになった。朝日ソーラーは83年3月に創業、太陽熱温水器の製造、販売会社として頭角を現しつつあったが、すでに、孫はパソコンソフトの天才経営者として注目され始めていたこともあり、年長だった林が孫を表敬訪問した。時間に厳しい林は約束の時間より5分程前に日本ソフトバンクを訪れた。孫は時間厳守というほどではなく、約束の時間より5分程遅れて応接間に現れた。この時、林は「先輩を待たせるとは、礼儀を知らない男」と内心、不愉快に思っていた。

 そこへ、孫がにこやかな笑顔で現われ、1兆円構想を滔々と打ち上げた。「将来ソフトバンクは1兆円、2兆円と売り上げを伸ばします。豆腐屋と一緒です。ハハハー」。孫が得意げに語っているのを遮るように、林が吠えた。「ちょっと待て孫! 男が無責任なことを言っちゃならん」すでに初対面なのに呼び捨てである。「お前は1兆円に行かん。精々2000億円がいい所だ!」林は言い放った。林は創業して5年。300名の部下を叱咤激励して日曜日もないくらいに働いてようやく100億円を達するかしないかの状況。それなのに、自分より7歳年下の小柄な男がいとも簡単に1兆円を口にする。待たされたこともあって、林は孫の鼻をへし折ってやろうと思った。

 孫も負けてはいない。「あんたに俺の夢をとやかく言ってもらいたくない。俺が出来ると言っているのだから、それでよかやんね」。「何だと、貴様生意気なこと言うな!」林は威嚇するように孫をにらみつけた。

 林は高校時代、近隣の高校の番長を従えた番長の中の番長で、腕には自信がある。彼が睨みつけると、暴走族の猛者も縮み上がる。その強面で睨みつけられても孫は一歩も引かない。林と孫の間で激しく火花が散った。一触即発の状態である。

「まぁまぁ、2人ともそげん興奮せんとー」額に汗した岩屋がたまらず中に割って入った。将来の首相候補を慌てさせるほど、二人の出会いは壮絶な喧嘩で始まった。

 しかし、大喧嘩しただけあって、打ち解けるのも早かった。3人は食事を終える頃には、肝胆相照らす仲になっていた。1カ月後、孫は父親の三憲と連れ立って、大分の林を訪ねた。別府温泉につかって、二人は機嫌よく帰って行ったが、帰りしな、三憲は「正義をよろしくお願いします」と林に深々と頭を下げた。その頭の低さ、律儀さを見て、林は恐縮し、「こちらこそ、よろしくお願いします。孫はすごい経営者になりますよ」と持ち上げた。

 ソフトバンクはその後、株式上場、5000億円の資金調達、米国のコンピューター見本市運営会社、コムデックスやパソコン関連の出版会社、ジフ・デイビスの買収、ヤフーへの投資、ボーダフォン買収と積極果敢なM&A(企業の合併・買収)作戦を展開、連結売上高2兆7634億円のデジタル情報企業を創り上げた。

 そして、今「中国を制する者は世界を制する」を合言葉に、アリババグループや大手SNSのオーク・パシフィック・インタラクティブ(OPI)などに資本参加、中国におけるネット戦略を矢継ぎ早に展開している。

 可愛いひな鳥だったソフトバンクは30年後には世界を飛び回る大鷲に育った。だが、創業当初は孫を除いては誰も兆円企業になろうとは予想もしていなかったのである。

第1回目の大博打

 兆円企業の万畳敷の帆を広げたソフトバンク丸。孫は創業直後に第1回目の大博打を打った。資本金1000万円のうち、800万円を使って、大阪で開かれたコンピューター関連の見本市「エレクトロニクスショー」の一番目立つところにブースを出店した。

「これからパソコンの時代が来る。パソコンにはソフトが必要です。そのソフトを日本ソフトバンクが一手に販売します」と大見得を切った。

 企業はまず、世間に知られることが大切だ。どんなに優れた商品を持っていても、知られなければゼロに等しい。

 孫は本能的に広告・宣伝の重要性を知っており、なけなしの財布をはたいて、エレクトロニクスショーで名乗りを上げた。

 ソフトを紹介する雑誌も1冊つくり、その制作費が200万円、会社を設立して1カ月で資本金1000万円を使い果たした。この博打が空振りに終わればたちまち資金繰りに窮することになる。

 期待と不安の中で、孫は客の反応を待った。しかし、客の反応はさっぱり。待てど暮らせど、電話1本も掛かって来ない。

「あちゃー、世の中は厳しいなぁ!」。孫の夢と自信は急速にしぼんで行った。3日、4日が過ぎ、ちょうど1週間経った頃、事務所の机の電話のベルが鳴った。

「来たーッ!」孫は電話機に飛び付いた。

「はい。日本ソフトバンクです」

「孫さんですか」

「はい」

「上新電機と申します。エレクトニクスショーで、日本ソフトバンク展示コーナーを見ました。素晴らしい。もう少し詳しい話を聞かせてもらえませんか」

「喜んでお伺いします」

 上新電機は関西が地盤の大手家電量販店で、2010年3月期の連結売上高は3856億円だが、30年前は新進の家電量販店に過ぎなかった。将来、有望視されているパソコン分野に進出しようと思っていた所へ、孫正義が現われたのである。

 孫は上新電機に乗り込み、社長の淨弘博光を前に、これからパソコンの時代が到来する。それを動かすのがソフトで、ソフト市場は倍々ゲームで伸びて行くと、滔々と自論をぶち上げた。

1年後には30億円の売り上げ

 新産業、新市場では大手企業とベンチャー企業の実力差はない。むしろ、若者の方が強者の立場になるチャンスが多い。孫は米国で仕入れたコンピューター、パソコン関連の情報を淨弘に惜しげもなく披露した。淨弘はすっかり孫の弁舌に魅了された。81年12月、上新電機はパソコン専門店「J&P」の仕入れ先として日本ソフトバンクと契約した。

 次に家庭用ゲームソフトのハドソンを説得した。創業者の工藤裕司に会い、同じようにソフト市場の将来性をぶち上げた。「御社を必ずソフト開発のナンバーワン企業にしてみせますので、販売は日本ソフトバンクにお任せ下さい」。こうして、パソコンソフトの大所を一つひとつ押さえて行った。

 孫戦法の特徴は業界のナンバーワン企業に照準を当て、その経営トップにアタック、取引を始める頂上作戦を展開するところにある。「ナンバーワン企業を攻略すれば、2位、3位企業の攻略はたやすい」という。

 その言葉通り、業績はうなぎ登りに上がって行った。客が押し寄せ、創業1カ月後には15坪の所に引越し、社員は2人から15人へ。次の1カ月後に100坪の所へ移り、社員は100人へ。さらにその2カ月後には300坪の所へ引っ越し、その年の11月には、パソコンソフトの販売代理店募集を開始した。年内に全国150社の販売網づくりを目指した。

 こうして、1年後には、年商30億円に達した。パソコン業界に天才経営者現われると、マスコミに騒がれるようになった。

 孫もまんざらではなかった。新聞や雑誌のインタビューを受け、パソコンソフトの未来について語った。その記事で日本ソフトバンクや孫正義の知名度が上がり、マスコミの寵児へと祭り上げられていった。

 しかし、好事魔多し。とんでもない落とし穴が待ち構えていた。それも1つではなかったー。
 


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