会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
ジフ・デイビス-パブリッシング社長のエリック・ヒッポー氏(左)(95 年ごろ)
(企業家倶楽部2011年1・2月合併号掲載)
【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、藤田大輔、土橋克寿
一国は一人(いちにん)を以って興り、一人を以って亡ぶ。ひとりの英傑の出現によって、企業は生まれ、産業が興り、国が栄える。時は今、第三次産業革命といわれる情報革命を迎えた。
大義とロマンを掲げて、世界を疾駆する現代の“蒼き狼”たちの命懸けの戦いを追う。
創業13年で株式公開
1994年7月22日、ソフトバンクは店頭市場(現ジャスダック)に株式公開した。ここから孫正義の快進撃が始まった。創業から13年での公開、決して遅くはないが、孫正義にとっては、米国で創業していたら、5年で公開していた、遅すぎると思ったことだろう。
株式公開した年の94年3月期の売上高は641億円、満を持しての公開だった。初値は1万8900円、一時は3万円まで上昇し、この高株価を活用して市場から約5000億円を調達、大型M&A(企業の合併・買収)を敢行して、世界企業へ向かってばく進した。それはあたかも小鳥が鵬(おおとり)に変貌、天空高く舞い上がっていくようであった。 孫正義の縦横無尽の活躍を見る前に、90年代前半の日本経済の状況はどうだったかを見ておこう。
89年12月末の大納会に3万8915円87銭の高値をつけた東京証券市場の日経平均は年明け直後から急坂をころげ落ちるように下降した。バブル経済が弾けたのだ。それでもまだ、日本経済には活力があり、GMOインターネット(91年設立)、楽天(97年設立)など、ベンチャー企業が相次いで生まれ、インターネットが揺籃期を迎えていた。
孫正義は潤沢な資金でまず、約1000億円をかけて米国のコンピューター見本市「コムデックス」と「インターロップ」を買収した。94 年秋か95年初頭にかけてのことである。コムデックスはコンピューター見本市市場の60%、インターロップは20%のシェアを持ち、合わせて80%のシェアを占めた。
コムデックス買収
95年秋のコムデックスは米ラスベガスの全ホテルを借り切って同地のコンベンションセンターなど8カ所で、11月13日から5日間の日程で幕を開けた。初日の午前9時きっかり、アラジンホテルのシアターホールで開幕を告げるキーノートスピーチ(基調講演)が行われた。
コムデックスを買収して初めて桧舞台に立つ孫正義はこの日、開幕より1時間も早く会場に入り、一人、会場の最前列の席に座わり、英語による主催者挨拶を何回も反復練習した。これまでの人生でこれほど緊張したことはなかった。 それから1時間後、会場に詰めかけた3000人の聴衆を前に、孫はやや緊張した面持ちで挨拶する。「私は今、コンピューターにのめり込んでいます。約20年前、初めて美しい未来都市のようなマイクロプロセッサーの写真を見た時、現在のコンピューター社会を予見し、驚嘆しました。デジタルテクノロジーは産業社会を情報社会へと変革させる革命的なものであります。毎年、コムデックスはこのようなインフォメーションテクノロジー(IT)の新しいアイデアを生み出す基地となっています。今週、われわれはコムデックス会場で新しいアイデアに触れるでしょう」
「歴史は“永遠”というものが存在しないことを教えています。一瞬のうちに今、在るものすべてが変わることも可能な時代です。それゆえ、コムデックスは消費者の皆様のための新機軸を創造するよう、今後も変化し、成長し続けます。コムデックスは多くのテクノロジーのみならず、多くの人々が集うことで、インフォメーションテクノロジーの中心にいるのです。まさに情報社会の出会いの場であります」
「さて、ここでキーノートスピーカーをご紹介します。93年4月、彼はIBMの会長兼CEOに就任した時、同社を産業界のリーダーに返り咲かせること、という大変難しい命題を要求されましたが、わずか2年半で現実のものとしました。皆様、ルイス・ガースナー氏をご紹介します」
約10分間、原稿なしの英語でのスピーチ。世界を飛び回る孫ならではの芸当だ。基調講演を終えたガースナーと演壇で握手する時には、例の孫スマイルも戻った。講演後、コンピューター業界関係者の握手攻めに会う孫には、既にコムデックスの“主人”の顔がのぞいている。孫が世界のコンピューター業界に華々しくデビューした瞬間である。
コムデックスは毎年、春と秋の2回、ラスベガスで開かれ、世界各地から2200社のコンピューター関連会社が新製品を出品し、毎回10万人の関係者が来場する。有力企業のトップも必ず顔を見せる。コムデックスに出席しないという事は、コンピューター業界から撤退することを意味するぐらい、この見本市は重要であった。
当時、コンピューター業界の帝王といわれたマイクロソフト会長のビル・ゲイツもハードな日程を調整して、コムデックス会場に毎年、現われた。それだけでなく、同社はコムデックスの会期に合わせて新製品を発表した。
会場には、世界100カ国から2000人のコンピューター関連のジャ71・企業家倶楽部 2011年1/2月合併号ーナリストが詰めかけており、マイクロソフトなど有力企業の新製品ニュースを全世界に向けて発信する。
各社のトップがコムデックスで一堂に会するため、各ホテルでトップ会談が繰り広げられる。ほとんどのトップはホテルのスイートルームに陣取り、5日間の会期中に世界の有力経営者20~30人と重要会談を重ねる。このため、ホテルの部屋を確保するのがスタッフの第1の仕事となる。
コムデックスには、世界のコンピューター関連の最新技術と情報が集まり、有力企業同士の提携話などが進行する。世界経済をリードするコンピュータービジネスの最前線がここにあり、コンピュータービジネスの将来方向も同会場で練り上げられる。
コムデックスやインターロップはコンピュータビジネスのインフラそのものである。ソフトバンクはその舞台の運営会社となった。孫正義が1000億円の大金を払って、そのインフラを手に入れたのもうなずけよう。
ビル・ゲイツとゴルフを楽しむ
翌年秋のコムデックスは11月18日から5日間の日程で同じくラスベガスで開かれた。孫はすっかりリラックスして、2年目に臨んだ。前日、17日はビル・ゲイツとゴルフを楽しんだ。
9時きっかり、待ち合わせの場所にビルが現われた。「グッドモーニング、MASA!」「ハーイ、ビル!」2人は親しげに握手を交わし、談笑し始めた。ちょっぴり眠そうなビルとすっきりした表情の孫、いかにも楽しげだ。
ラスベガス市内から車で10分。ミラージュホテルのオーナー、ケン・ウィニーが所有するプライベートゴルフ場。クラブハウスのロッカーにはアメリカ大統領の(パパ)ブッシュ、バスケットボールの神様マイケル・ジョーダン、映画俳優のケビン・コスナーら著名人の名がずらりと並ぶ。
2人はクラブハウスで朝食を摂る。ビルは朝から皿からはみ出しそうなステーキをペロリと平らげた。「俺は20年間、1日も会社を休んだことがない」とビルはタフネスを自慢する。
ほどなく、本日のもう1人のメンバーであるビルの右腕、スディーブ・バルマー(現CEO)が現われ、ビルが運転するカートに乗り込んで、10 時にスタートした。
孫はハンデシングルの腕前。ビルはハーバード大の秀才だが、運動はあまり得意ではない。ゴルフ場では孫が威張っていた。
ジフ・デイビス・パブリッシングを買収
すっかり余裕を見せる孫。それにはもう一つの訳がある。この年の10月10日、念願だった米国のパソコン関連の出版会社、ジフ・デイビス・パブリッシング社の買収に成功したからだ。
ジフ社はアメリカのパソコンブームに乗って雑誌数、発行部数、広告高などすべてにおいて群を抜いており、世界最大のコンピューター関連出版社として5割のシェアを握っていた。
ジフ者の存在を知ったのは、87年ごろ。孫がビル・ゲイツを訪問した時、数あるパソコン雑誌の中から1冊の雑誌を取り出し、孫に見せた。
「このPCウィークは世界最高のパソコン雑誌だ。この雑誌にどのように取り上げられるかで、商品の売れゆきやその後の価値が決まる」
以来、孫は「PCウィークを発行しているジフ社を必ず手に入れる」と心に誓った。
94年7月、店頭公開を果たした孫はさっそくジフ社の買収に挑戦した。このときのM&Aハウスは米国モルガンスタンレー。10月には、ジフ社の買収に正式に名乗りを上げ、1400億円の買収額を提示した。この金額は当時、破格の金額で、「孫さんは気が狂ったのではないか」と金融機関などではささやかれた。
モルガンスタンレーによると、すんなり買収にこぎつけられそうで、あとは1400億円の資金調達が出来るか企業家倶楽部 2011年1/2月合併号・72 コムデックス開催期間中、ラスベガスのホテルでくつろぐ孫正義どうかにかかっている、という報告だった。
ところが、突然ライバルが現われた。米国の投資会社フォーストマンリトル社がソフトバンクが資金調達に手間取っている間に、1450億円でジフ社をさらってしまったのだ。
あきらめ切れない孫はその後、何度もフォーストマンリトル社に電話を入れジフ社を譲ってくれるように頼んだが、「売る気はない」とすげなく断られていた。
買収金額は2100億円
明けて95年9月26日のことである。孫と財務担当常務の北尾吉孝(現SBIホールディングスCEO)は別の会社の買収交渉のため渡米していた。その帰り、どうしてもジフ社をあきらめ切れない孫はニューヨークのフォーストマンリトル社に電話を入れると、社長が会うという。
9月27日、孫、北尾、そしてソフトバンクホールディングス副会長のロン・フィッシャーの3人でマンハッタンの高級住宅地にあるフォーストマン社長宅を訪れた。応接室に通された孫は早速切り出した。
「ぜひともジフ社をソフトバンクに譲っていただきたい」
フォーストマンがおもむろに口を開く。「譲ってもよいが、1500億円や1600億円では話にならない。2000億円を超えないとね」。かなりの高姿勢である。
「おっしゃることは分かりました。必ずご満足いただける金額を提示させて頂きます」と孫は答えた。
孫と北尾は帰国するや否や、役員会のメンバーにフォーストマン社長との交渉経過を伝えた。役員会では「最高2000億円まで」という結論になった。
10月8日、孫と北尾は再び、ニューヨークのフォーストマン宅を訪れた。そして、2100億円の買収額を提示した。
内訳はソフトバンクとして1800億円、孫の持ち株会社MACとして300億円。細かい支払い条件は早急に検討することで合意にこぎつけた。
それにしても、フォーストマンが1450億円で買ったものが、わずか1年足らずで650億円も値上がりした格好になる。この買収価格について、北尾は「ソフトバンクとして支払う1800 億円という買収金額はEBITDA(償却前営業利益)の9倍で、適正価格」と説明する。
孫は1800億円に自分の身銭
(MAC)を切って300億円を上乗せして、ジフ社を買収した。凄まじい執念だ。なぜ、これほどまでに執念を燃やすのか。
孫はジフ社買収の際に、盟友、朝日ソーラーの林武志に相談の電話を入れた。
「林さん、今度アメリカのコンピューター関連の雑誌出版社を買うと思うけど、2本なら高いやろうか?」
「う?ん、200億円なら妥当な所だろう」
「違う違う。2000億円タイ」
「え?っ!2000億円?そりゃあ高すぎるバイ。何でそこまでして、ジフ社を買うとや?」
「ジフ社のPCウィークは世界で一番のパソコン雑誌で、マイクロソフトのビル・ゲイツをはじめ多くのコンピューター関連企業が一目置く出版社。だからジフ社を買収したら、世界のコンピューター業界でリーダーシップが取れるとタイ」
孫はこうして大型M&Aを敢行、大学卒業時に「アイシャルリターン(必ず米国に戻ってくる)」という自分自身への約束を果たした。日本では、ソフトバンクの“スピード違反経営”がマスコミの話題となる中で、孫は悠々と大空に向かって羽ばたいて行った。