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【ベンチャー三国志】Vol.13

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

天才 西和彦 パソコンブームを巻き起こす

天才 西和彦 パソコンブームを巻き起こす

左から西和彦、ビル・ゲイツ、ポール・アレン(1978年)



(企業家倶楽部2012年6月号掲載)

豊かな表現力と意表をつく発想で聞く者を虜にし、日本にパソコンブームを巻き起こした天才西和彦。盟友ビル・ゲイツとともに日本のパソコン業界を牽引した。その足跡は一時期ソフトバンクの孫正義を凌いだ。【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、土橋克寿、相澤英祐


アスキーを創業

 2001年3月、CSK創業者大川功の葬儀が東京・築地本願寺でしめやかに行われた。葬儀委員長はCSK会長の福島吉治、同社の幹部社員が全員参列した。

 その参列の中に西和彦の姿もあった。参列者に、にこやかに笑いかける大川功の遺影を仰ぎ見ながら、大川功の冥福を祈った。目をつむると、大川功との思い出が走馬灯のように浮かんできた。米国に行く飛行機の中で偶然、大川と乗り合わせ、夢中でビジネスについて語り合ったこと、アスキーの再建を頼んだこと、マイクロソフトのビル・ゲイツに大川功を紹介したこと、アスキーの社長解任を大川から直接言い渡されたことなど、次から次に思い出が浮かんでは消えた。

 いつしか西はアスキー創業の頃の思い出に浸っていた。1977年5月、早稲田大学在学中に郡司明郎、塚本慶一郎の3人でアスキー出版(アスキーの前身)を設立した。父親の邦大から資本金300万円を出してもらい、邦大を名義上の社長にしての船出であった。場所は東京・青山のマンションの一室。ここから“パソコンの天才”といわれた西和彦の企業家人生が始まった。ビル・ゲイツに遅れること2年、同じく“パソコンの神童”といわれたソフトバンク社長の孫正義が創業する4年前のことである。

 西と郡司は下宿人(西)と下宿屋の息子(郡司)という関係。郡司は西より9歳年上の千葉工業大学卒業のプログラマー。塚本は西より1歳年下で、電気通信大学の2年生の時、アルバイト記者だった西と知り合った。

 1970年代後半はパソコン(PC)が生まれた時で、PCの基本ソフト(OS)をつくるマイクロソフトやPCを製作するアップルが登場、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズが若きヒーローとして全米を賑わし始めた頃である。1977年春、西はサンフランシスコで開かれた第1回ウエストコースト・コンピュータ・フェア(WCCF)を見学して、アスキー設立を思い立った。

 「アスキー」創刊号は5000部を刷った。もちろん書店では扱ってくれないので、秋葉原のマイコンショップなどに持ち込み、売ってもらった。「風が吹いていれば必ず売れる」という西の予言通り、またたく間に売れた。はじめつれなかった書店や取次店からも販売の申し込みがあり、「アスキー」は急速に発行部数を伸ばして行った。

 西はパソコンを見た時、「将来、汎用コンピュータに代ってパソコンの時代が来る」と直観した。孫正義もカリフォルニア大学バークレー校に在学中に大規模集積回路の美しい写真を見て「コンピュータが産業界を支配する時代が来る」と瞬間に思った。2人の天才は同じ時期にコンピュータに魅せられていった。西は自分の予言の正しさを証明するために「アスキー」を出版した。ただの雑誌屋ではなかった。

ビル・ゲイツと運命の出会い

 アスキーを設立して1年が経った頃、運命の出会いがある。マイクロソフトのビル・ゲイツとの邂逅である。初め西は書物でビル・ゲイツの存在を知った。ある学会誌にマイクロソフトの記事が載っていた。この記事を読み進むうち、西は「ビル・ゲイツのBASICを使って自分のコンピュータを作りたい」と思った。すぐさま、ビル・ゲイツに国際電話をかけ、カリフォルニア州アナハイムで開かれた全米コンピュータ会議(NCC)でビル・ゲイツと会う約束を取り付けた。

 アナハイムで会った2人は意気投合した。「育ちのいい、礼儀正しい人」というのが西のビル・ゲイツに対する第一印象だった。3ヵ月後、マイクロソフトの本社でマイクロソフトBASICの東アジア市場における独占販売権をアスキーに与えるという契約書にサインした。

 西は初めマイクロソフトのBASICに改良を加えて、理想のパソコンを作りたいと思い、ビル・ゲイツに会いに行った。「ところが、気がついてみたら、マイクロソフトの代理店として日本でBASICを売るハメになっていた」と苦笑する。

 しかし、マイクロソフトとの提携はアスキーに思わぬ恩恵をもたらした。日立製作所、東芝、日本電気など日本の有力電機メーカーがマイクロソフトのBASIC欲しさにアスキーに日参するようになった、西は一躍、パソコンの寵児として、業界やマスコミからもてはやされるようになった。

 西はマイクロソフトの代理店になることは本意でなかった。ちょっとした拍子でBASICを売ることになったが、それは時代の要請であり、奔流に流されるままに、流れに乗った。西の心の中には常に「自分好みのパソコンをつくりたい」という願望が横たわっていた。世間では“日本のビル・ゲイツ”といわれたが、本当は“日本のスティーブ・ジョブズ”を目指したいと思っていたのではないか。

 マイクロソフトBASICを基本に西のアイデアも盛り込まれて出来上がった傑作がNECの「PC・8001」。1979年9月、16万8000円で売り出された。同機は発売開始3年間で25万台を販売、大ヒット商品になった。これをきっかけに、西は本来やりたかったパソコン開発にのめり込んで行く。
 80年に日立の「BASIC MASTERレベル3」、81年に京セラのポータブル・コンピュータ「モデル100」とNECの「PC・8200」という具合に、西は電機メーカーと組んでパソコンの新製品を次々に開発して行った。大手電機メーカーは西のアイデアと構想力にひれ伏した。

 1983年6月16日、マイクロソフトの戦略商品「MSX」が発売された。各社でつくっているパソコンソフトを共通のものにし、互換性を持たせようという野心的な試みである。この商品でパソコンのディファクトスタンダードを取るという狙いも見え隠れする。

 趣旨はもっともだが、すべての仕様をマイクロソフト陣営のものに統一しようというもの。当然、反対ののろしが上がった。ソフトバンク社長の孫正義が電機メーカー10数社のトップに呼びかけ、MSXに対抗する統一規格案を出すとぶち上げたのである。孫は西より1歳年下の男で、“パソコンの天才”西に対し、“パソコンの神童”とうたわれた。長年の宿敵となる2人が初めて真正面から衝突したのである。

 孫の反論も無理はない。MSXはマイクロソフトとアスキーに有利な規格で、開発メーカーからの高いロイヤリティーを取ろうとしている、と孫は言う。6月26日夜、西と孫のトップ会談で、西が譲歩して決着した。当時、マスコミはMSX戦争と称し、2人の若きパソコン天才の闘争を面白おかしく報道した。

 MSXは全世界で400万台を突破したが、西が狙ったようなホームコンピューターとしては定着しなかった。日本では主要メンバーのNECが土壇場で撤退し、カシオ計算機が2万9800円のMSXパソコンを発売し、価格競争に火をつけた。鳴り物入りでMSXパソコンは世に送り出されたが、最後は尻すぼみに終わった。

マイクロソフトとの別離

 アスキーの会社設立から約10年が経った1986年の年頭、西に転機が訪れた。アスキーとマイクロソフトの独占代理店販売契約が突然、解消され、西はマイクロソフト副社長を解任されたのである。一卵性双生児ではないかと言われる位に仲の良かった西とビル・ゲイツに亀裂が生じたのはなぜだろうか。

 ソフトウェアの開発にこだわるビル・ゲイツ。片や西は『理想のコンピューターをつくりたい』とハード志向が強い。経営路線が違うという側面もあったが、『両雄並び立たず』という古今東西の諺が当てはまるような気がする。

 西もビル・ゲイツも1950年代半ば生まれの同級生。ビルはハーバード大学に入学した秀才だが、西も東大入試には2度失敗したものの、IQは191と並外れて高かった。お互い何不自由なく育ち、いわば裕福な家庭の坊ちゃん。育った環境もよく似ている。

 恐らく「俺、お前」の関係だったろう。お互いに商売の関係がなければ、親しい友人として長く友情を育むことが出来たであろう。しかし、実際にはアスキーはマイクロソフトの東アジア地区の販売代理店であり、西はマイクロソフトの副社長として、ビル・ゲイツに仕える身である。逆に言えば、よく10年間も蜜月関係が続いたものだとも言える。 
 86年3月期のアスキーの売上高は138億円、うちマイクロソフト関連の売上げは約20億円、全売上げの約15%に達していた。合弁会社アスキーマイクロソフト社長の西は日本の電機メーカーを従えて、年々力を拡大している。ビル・ゲイツが西の勢力拡大を恐れたとしても不思議ではない。そろそろ、自前の現地法人を設立しようと思うのは自然の成り行きである。

 しかし、西にとっては青天の霹靂であった。合弁関係が解消され、マイクロソフトの副社長を解任されたのはショックだった。逃げ帰るように日本に帰国した。アスキーにとっても打撃が大きかった。マイクロソフト関係の売り上げを埋めるのは並大抵のことではなかった。

 西、郡司、塚本のトロイカ体制も微妙になってきた。それまでは西はマイクロソフトとの合弁事業に専念し、郡司がアスキー社長として同社の経営全般を見、塚本が「アスキー」の出版事業を手がけてきた。円満に行っていたトロイカ体制に突如、西が帰って来ることになり、3人のポストを考え直さなければならなくなった。





部下の裏切り

 失意のドン底にある西に追い打ちをかける出来事が起こった。西の腹心の部下である古川享がマイクロソフトの日本法人社長にスカウトされたのである。86年2 月、100%子会社マイクロソフトを設立、アスキーの取締役ソフト開発本部長だった古川を社長に据えたのである。米国ではライバル企業の副社長などを引き抜くのは珍しいことではないが、西にとってはビル・ゲイツも古川も完全な裏切りであった。

 それどころか、その下の成毛真もマイクロソフト日本法人に移り、結局、ソフトウェア企画部の9割近くがマイクロソフトに移籍、残ったのは2人だけだった。マイクロソフトのスカウト作戦が功を奏したと言えば、それまでだが、裏切られた西が人間不信に陥ったことは想像に難くない。

 だが、西は裏切りや人間不信に負けてしまうほど柔な人間ではない。ビル・ゲイツへの対抗心がメラメラと湧き起こり、その対抗心をエネルギーにして徐々に立ち直っていった。

 そして、翌年の87年4月1日に西はアスキー社長に就任した。西は「順番が来たから社長に就任した」と語るが、この新社長就任には、2つの狙いがある。1つは脱マイクロソフトを明確にすること。当時、世間ではマイクロソフトとの提携を解消したことで、「アスキーはマイクロソフトの後盾を失い、経営が揺らぐのではないか」との観測があった。この観測を新社長就任で払拭する必要があった。

 2つ目は西個人の信用力の回復である。マイクロソフトとの8年間の提携関係で西はパソコンの寵児になったが、西の実力はマイクロソフトあってのもの。マイクロソフトを離れた西はただのパソコンおたくだと揶揄する声があった。新社長就任によって、西の真の実力を示さなければならない、と当の西本人だけでなく郡司も塚本も思ったに違いない。

 新社長が決まったら、次に会社としての新しい目標が必要だ。西たちは株式公開を新しい目標に据えた。ライバルのマイクロソフトも米国ナスダックへの上場を目論んでいる。西は「ビル・ゲイツに追いつき、追い越せ」と店頭市への株式公開に向って走り始めた。 
 80年代後半はバブル経済が徐々に膨れ上がり、頂点に達しようとしていた。日本経済が最も強かった時期でもある。アスキーは89年9月21日に店頭公開した。初値は5220円と途方もない値段がついた。西、郡司、塚本の3人は各11・3%を保有しており、それぞれ30数億円の資産家になった。ジャパン・ドリーム実現である。89年度の売り上げは275億円を計上、マイクロソフトとの提携解消時の売り上げ138億円を上回り、完全に回復した。


◆参考文献

「電脳のサムライたち-西和彦とその時代」(滝田誠一郎著、実業之日本社刊)

「アスキー 新人類企業の誕生」(那野比古著、文藝春秋刊)

「ベンチャーの父 大川功」(西和彦著、アゴラブックス刊)

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