会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2012年8月号掲載)
アスキー王国は1990年代に入って急速に輝きを失って行く。創業仲間の離反、幹部社員の集団退社、カンパニー制導入後の各部門の暴走??。西和彦は満身創痍となって、建て直しに奔走する。最後の後ろ盾であったCSKの大川功を失って、パソコンの天才は窮地に立たされた。
【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、土橋克寿、相澤英祐
ビル・ゲイツと決別した西和彦は1987年4月1日、アスキー社長に就任した。31歳であった。2年半後の89年9月21日、アスキーは店頭市場に株式公開する。初値は公開価格を23・9%上回る5220円を付けた。ジャパニーズ・ドリームの実現である。
公開後の記者会見で西は次のように述べた。
「株式公開は会社の第二の誕生日、やっと企業としての仮免許が取れた。これからは増収・増益、1株当たりの利益を増やし、適当な時期に無償増資も実施して、株主重視の経営をめざす」と優等生の発言をした。
89年度の売上は275億円に達し、マイクロソフトと分かれたときの138億円を完全に上回った。株式公開を機に事業も拡大、ピーク時には売上500億円を超え、IT業界の旗手としてマスコミからもてはやされた。
しかし、華やかな表向きの反面、裏側ではアスキー崩壊のドラマが静かに幕を開けていた。
1991年6月30日の日曜日の晩、西にある人物から電話が掛かってきた。
「明日の取締役会で君は社長を解任されるぞ」
「そうですか。知らせてくれてありがとう」と電話を切り、もしかすると社長を辞めなければならないかも知れない、と西は覚悟して床に就いた。
翌日、7月1日月曜日のアスキー取締役会は緊張感に包まれていた。出席者は会長の郡司、副社長の塚本それに西を含めて全役員12人が顔を揃えた。
創業仲間が社長解任動議
創業仲間の一人、塚本が社長解任動議を提出し、西の独断専行を非難した。アスキーでは西の独走を防ぐために郡司、西、塚本による三役会を設け、1億円以上の投資案件については三役会で話し合うことにしていたが、ほとんど機能しなかった。
西が社長に就任してから91年までの約5年間は、日本経済そのものがバブル景気にわき、各社とも不動産投資などに狂奔していた。西も本業以外の映画事業に数10億円も投資するなど、拡大路線を続けていた。
これに危機感を抱いた郡司と塚本は西の独走を止めにかかった。つまり社長解任である。2人が特に危険と感じたのは総額2000億円にのぼる「築館エアー・ソフトキャンパス・プロジェクト」だ。
同プロジェクトは宮城県築館町の工業用地56・5ヘクタールを買収し、IT関連企業を中核にした未来都市を創ろうという構想で、ジェット機も離発着できる2000メートル級の滑走路を備えた空港建設も含まれている。総額2000億円のビッグプロジェクトで、90年には地主とアスキーの間で進出覚書も交わされた。
この計画を阻止するため、創業者仲間の郡司と塚本は社長解任動議を提出した。理屈では郡司、塚本に分がある。しかし、役者が違っていた。塚本が解任理由を述べたあと、西がなぜ、同プロジェクトが必要であるかさらにはアスキーの拡大路線をとうとうと述べた。演説は1時間半にもおよんだ。
塚本は西の演説を聞いているうちに自分たちの負けを覚悟した。塚本たちが話をすると荒唐無稽な築館プロジェクトでも、西の口から出るといかにも実現しそうなプロジェクトに聞こえるのである。塚本の予想通り、社長解任動議は賛成2、反対10で否決された。
郡司と塚本は潔くアスキーを退社した。しかし、2人の顔はどこか晴々としていた。なぜなら2人合わせて約60億円の株式を堂々と売ることが出来たからだ。逆に西は2人の創業仲間を失って、初めて孤独感を味わった。社長を代ってもらうことも出来なければ、愚痴を言う事も出来ないのである。
恐れていた事態が起きた。バブル崩壊後の92年8月、転換社債(CB)の繰上げ償還資金120億円の調達に伴う資金繰りの悪化がアスキーの経営に重くのしかかった。
日本興業銀行など主要取引銀行6行が支援に乗り出し、この時は何とか乗り切った。銀行支援と引き換えに、興銀から橋本孝久が副社長に就任した。さらに商品別に50人前後からなる15のビジネスユニットを作り、独立採算制を敷く4つの局・事業本部を置いた。
幹部社員の集団退社
しかし、一度傾き始めた経営は容易に元に戻らなかった。崩壊の第2波は役員4人の集団退社事件である。96年5月、当時の収益源だった出版部門などを主に担当していた4人が「リストラを断行するワンマン社長の下では仕事がやりにくいから独立する」と退社した。この裏には、あるゲームソフト大手のオーナーが糸を引いていた。
このドタバタ劇のあと、後任の役員として、日本IBMから廣瀬禎彦が就任した。余談になるが、アスキーを去った取締役たちは出版とゲームソフトを手掛けるアクセラ、国際ファクス事業を手掛けるアイキューブネットを立ち上げた。だが2社ともうまくいかず、倒産した。
カンパニー制導入で各社暴走
集団退社事件のあと、銀行から「ワンマン体制を改め、集団指導体制を敷いてほしい」との要請があり、カンパニー制を導入、各カンパニーのCOOと西で構成する「エグゼクティブボード」が意思決定することになった。97年のことである。
集団指導体制と言うと、聞こえはいいが、裏を返せば無責任体制である。アスキー内にCEOが4人いることになり、会社としてのガバナンス(企業統治)が失われた。
ある時、西はパーティーでソニー会長の大賀典雄に会い、「アスキーも、今度カンパニー制をやることになりました」と伝えた。というのは、ソニーは他社に先駆けてカンパニー制を導入していたからだ。
そのときの大賀の返事に西は驚いた。
「そうか。でもカンパニー制を導入すると、会社が傾くぞ!とにかくカンパニー制は大変だよ。気を付けた方がいい」
「あの時、大賀さんに詳しくカンパニー制の弊害を聞いておけばよかった。しかし、当時はそんなに危機感は抱かなかった」と西は悔む。
7つのカンパニーのうち売り上げの大きかったのは、出版部門の「インフォメーション・カンパニー」、ゲームソフトの「エンターテイメント・カンパニー」、教育事業の「エデュケーション・カンパニー」、パソコン通信の「ネットワーク・カンパニー」の4社。出版とゲームソフトがそれぞれ年商200億円規模になっていたが、社長の西はこれらのカンパニーに命令することが出来なくなっていた。各カンパニーは勝手に規模拡大に向けて走り出した。
カンパニー制を導入後、しばらくして、興銀のアスキー担当者が西を訪れ、こう言った。「興銀も体力が弱ってきたので、これ以上の融資は出来ないので、どこかスポンサーを探してください」
97年当時は山一證券が破綻するなど大型金融倒産が相次いだ。興銀も関西の料亭の女将に手玉に取られて数千億円の焦げ付きをつくった。興銀と言えば、銀行の中の銀行と言われ、大蔵省に次いでエリートが入行した銀行である。その銀行が料亭の女将の投資話に乗ったということで、当時、話題になった。
CSKの傘下に入る
もはや銀行は当てにならない。結局、CSKの大川功に助けを求めることになった。大川とは1980年、飛行機の中で出会い、2人で時間も忘れて語り明かした。別れ際に大川が西に言った。「困ったことがあったら、相談に来なさい」
西は慈父のような大川の顔を思い出した。「そうだ、大川さんに相談してみよう」。1997年11月25日、都内の料理店伊真沁で「大川さんアスキーを助けて下さい」と約100億円の出資を頼んだ。
話はトントン拍子で進み、その年の12月24日のクリスマスイブの日に第三者割り当て増資をCSKが引き受けることが決まった。これでアスキーのCSK傘下入りが決まった。この時、西は大川あてに「血判状」を書いている。決して達筆とは言いがたいが、西の大川に対する敬愛の情が伝わってくる。その内容を紹介しよう。
株式会社CSK代表取締役会長
株式会社セガエンタープライゼズ
代表取締役会長
大川 功 様
念 書
貴社益々ご清祥のこととお慶び申し上げます
平素は格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます
さて、弊社第三者割当増資へのご協力を仰ぐにあたりここに私の心情を述べさせていただきます
振り返りますと私の二十代はマイクロソフトのビルゲイツと共に手を組んでパソコンという世代とそれによる新しい世界の情報産業の基盤を構築したかのようにも思えます
また三十代は日本にもどり、株式会社アスキーを店頭公開いたしました
四十代になった今、これからの私の仕事として日本の情報産業のために働ければと強く思う次第であります
更に九年後の五十代の仕事としましては願わくは世界の情報産業のために貢献したいということが私の真情であります
もし幸運にもこの目標に到達することができれば結果として大川様はじめ株式会社CSKにも必ずや大きく貢献できるものと今日、堅く信じております
尚、本件につきましては、幸い社内意志の掌握もでき役員をはじめ社内は完全にまとまっておりますのでなにとぞお力をお貸しくださいますよう伏しておねがい申し上げます
このように自らの意志と決心、真情を吐露するのは全く初めてのことであり赤面の至りではありますが、私の不変の意志と決心を証しするため、ここに謹んで署名、血判をさせていただきます
平成九年(1997年)十二月一日夜
株式会社アスキー
代表取締役社長 西 和彦
100億円の増資でアスキーの財務体質が強化され、西は「やれやれ」と思った。その直後に、約100億円の過剰投資、平たく言えば赤字が発生していることが判明した。
まず、出版事業。創業20周年記念プロジェクトとして、総合週刊誌「週刊アスキー」を創刊した。西は創刊号を見て「アカン、これでは売れない、やめよう」とエグゼクティブボード会議で即刻中止を求めた。しかし、他のメンバーに押し切られて、3ヶ月も発刊を続けた。この週刊誌の失敗で20 億円の赤字が出た。このほか、各書籍の印刷部数を増やしていたこともあって、合計40億円の穴を空けた。
ゲームソフト部門でも事業拡大のアクセルが踏まれ、約50億円の赤字となった。出版とソフト部門の両方で90億円の赤字となった。大賀の「カンパニー制は会社を傾けるぞ」という言葉が西の脳裏に鮮明に浮かび上がった。
西はあわてて大川に報告に行った。
「詐欺やないか、知ってたんやろ、この嘘つき!」。大川は烈火のごとく怒った。
98年3月期の決算は惨々たる有様だった。特別損失は456億円に膨れ上がり、132億円の債務超過となった。万事休す。西は98年4月27日に社長を辞任、平の取締役に降格することを記者発表した。本当は取締役も辞めたかったのだが、大川の「逃げるな」のひと言で取締役として残った。
西は振り返る。カンパニー制と銀行の恐ろしさを。集団指導体制という甘美な言葉に酔って、責任の所在がうやむやになり、全社で拡大路線を突っ走ったこと。同時に、銀行だけはこの非常事態を察知し、西にスポンサー探しを促したのではないか。
何も知らないおめでたい西は必死になって、スポンサーを探し、大川功から100億円を引き出した。その時点でアスキーの財務内容を明らかにし、132億円の債務超過を白日の下にさらした。銀行は冷酷なものである。否、企業経営引いては人間の営みそのものが弱肉強食の世界にあることを、西は債務超過によって初めて知らされた。
後ろ盾、大川功逝く
しかし、西はと言うよりアスキーの悲劇はこれで終わらなかった。西の最大の後ろ盾である大川功が2001年3月、食道がんで亡くなったのである。ここから状況は一変した。1年後にアスキーはユニゾン・キャピタルという投資ファンドに売られ、非公開会社に移行、04年に投資ファンドから角川ホールディングスに売られた。
アスキーがCSKから出資を受け入れた時、西はビル・ゲイツにこのことを話した。ビル・ゲイツは「なぜ、俺に言わなかったのか」と言った。事前に相談があれば、出資に応じたのに、というニュアンスだった。そして、こうも言った。
「大川さんがいつまでも元気と思うな。元気なうちに自分自身の復活を考えておけ」と。
今、西は尚美学園大学で教鞭を振う。
同大学大学院芸術情報専攻教授としてメディア論を学生に教えている。そのかたわら、デジタル ドメインというベンチャー企業を設立、世界一のアンプづくりにいそしんでいる。「ベンチャーというのは世界一の技術を持たなければベンチャーではない」というのが持論で、音響分野で世界一を目指している。
企業家、西に対する評価はまちまちである。恐らく厳しい評価の方が多いだろう。それでも西は今でも多くの人々を魅きつけるものがあり、インターネットについての寸評は鋭いものがある。西がパソコンの黎明期に異才を放ったことは歴史に刻んでおかなければならない。
◆参考文献
「電脳のサムライたち-西和彦とその時代」(滝田誠一郎著、実業之日本社刊)
「ベンチャーの父 大川功」(西和彦著、アゴラブックス刊)