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【ベンチャー三国志】Vol.15

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

アスキーの教訓

アスキーの教訓

2012年6月 ビルゲイツ氏とシアトルにあるマイクロソフトのオフィスにて

(企業家倶楽部2012年10月号掲載)

【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、土橋克寿、相澤英祐

ベンチャー企業家の特徴は旺盛な成長意欲にある。ある者はその大風呂敷により大成功し、ある者は大失敗をする。その差は多分に運に左右されるし、紙一重の所がある。アスキーの西和彦はあふれる才能ゆえに辛酸をなめ、後に続く者に教訓を残した。

実力以上の借金は禁物

 アスキーの軌跡を振り返ってみると、ベンチャー企業の陥りやすい落とし穴に気づく。

 ベンチャー企業は本能的に成長意欲が強い。ソフトバンクの孫正義はその典型だ。しかし、その成長意欲に大きな落とし穴がある。過去に幾つかの急成長ベンチャーが落とし穴にはまり消えていった。

 介護事業のグッドウィル、ITベンチャーのライブドアなど枚挙に暇がない。なぜ、急成長ベンチャーは同じ失敗を繰り返すのか。よく見ると、一つの共通項がある。自信過剰によって、実力以上の借金をし、実力以上の挑戦を試みることだ。

 古来、新興勢力は実力以上の挑戦をして来た。徳川家康は三方ヶ原で武田軍と戦い、蹴散らされ、もし、武田信玄が陣中で病にたおれなかったら、命脈は尽きていたろう。

 織田信長は桶狭間で今川軍を迎え撃ち、奇襲作戦が奏功して、天下布武への道を開いた。しかし、今川軍がまさかの奇襲戦法を警戒し、万全の防備を整えていたなら、信長の奇襲作戦は単なる無駄な抵抗で終わっていたかもしれない。戦いは時の運である。運に恵まれた者は生き残り、運のない者は歴史の荒波の中で消えていく。

 自信過剰と大胆な挑戦は紙一重なのだ。2兆円の巨費を投じたソフトバンクのボーダフォン買収は誰の目にも無謀と思えた。「早晩、ソフトバンクの経営は行き詰まる」と大手メディアの記者たちは予想した。しかし、結果は巨額借り入れをものともせず、売り上げを3兆円に伸ばし、「2016年度には営業利益を1兆円にする」と孫正義が豪語するまでになり、今のところは吉と出ている。

 従って、実力以上の挑戦を否定する訳ではないが、概して、自信過剰に陥った企業家は失敗するケースが多い。

 アスキーの場合は、1992年のスイスフラン建て転換社債(154億円)が大きな重荷になった。3年後にくり上げ償還期限が来て、立ち往生した。普通、こういう場合は社債を株式に転換するか、借り換え債を発行して切り抜けるのだが、1992年当時はバブルが弾け、金融機関も貸しはがしに狂奔していた頃で、アスキーの社債借り換えに応じてくれる所はなかった。

 主要取引銀行の日本興業銀行は関西の投資家、尾上縫へのコゲ付きで四苦八苦、アスキーの窮状を救うどころではなかった。内部留保の範囲内で堅実に投資していれば、たとえ投資に失敗しても屋台骨が揺らぐことはないが、借金で大型投資に失敗すると、途端に経営が厳しくなる。

 西は金策に走り回り、最後はCSK会長の大川功にすがることになった。8年前、米国に行く飛行機の中で大川と親しく話した際、「何か困ったことがあったら、相談に来なさい」という慈父のような大川の顔を思い出したからだ。

 「大川さん、アスキーを救ってください!」と赤坂の小料理店、伊真沁で大川に頭を下げたのは1997年11 月末のことだった。それから1ヵ月後の12月24日、クリスマスイブの日にCSKがアスキーに100億円出資することになった。

 西は安堵した。「これで危機を乗り越えた」と。

隠れ赤字が続々

 ところが、これから西の苦難が始まった。次から次に隠れ赤字が出てきたのだ。まず、ゲーム部門で赤字が積みあがった。同部門の年間売り上げは約200億円、パソコン部門(200億円)と並んで同社の主力部門。ここは日本IBMから転じた常務の廣瀬禎彦が担当していた。

 廣瀬はのちにセガ・エンタープライゼスの副社長になるなど、切れ者であったが、西には細かい実務が弱いように思えた。西がスカウトした人物なので、誰れにも文句は言えない。その廣瀬が担当するゲーム部門で50億円の赤字が出た。

 次は週刊アスキーの失敗である。週刊アスキーはアスキーの創業20周年を記念して創刊したもので、編集長には週刊スパの編集長だった渡邊直樹を起用した。東大卒の俊英だったが、西は創刊号を見て、「これはアカン!売れない」と直感した。すぐさま発行中止を命じた。

 以前の独裁者、西なら、すぐさま発行中止となっていたのだが、98年のアスキーはカンパニー制を導入、アスキーグループの社長である西が命令しても、カンパニー長が命令に従わなければ、中止にならない。

 日本興業銀行から来た副社長の橋本孝久が「可愛そうだから、しばらくやらせてくれ」と渡邊に助け舟を出したことも休刊を遅らせる結果となった。仕方なく、西は見守ることにした。この結果、20億円の赤字を作った。

 さらに出版部門では20億円の不良在庫も発覚した。合計すると、CSKから出資してもらった100億円がアッという間になくなった。「一瞬のうちになくなった」と西は言う。

 「知ってたんだろう!」と大川は激怒した。西は平謝りに謝ったが、あとの祭だった。どうやら100億円の隠れ赤字があることは日本興業銀行サイドは察知していたようだ。そこで「銀行以外のスポンサーを探して欲しい」と西に要請したのだ。

 西はカンパニー制の導入で、各部門の経営実態を把握していなかった。カンパニー制の負の部分を嫌というほど味わせられた。ここで1つの教訓は、たとえカンパニー制を敷いたとしても、全体の資金の流れだけは経営トップとして把握しておかなければならないということである。

生きているプロジェクトも切り捨てる

 CSKから進駐軍として乗り込んできた社長の鈴木憲一は容赦しなかった。赤字部門を次から次に整理した。西が「それだけは残してほしい」と懇願しても、鈴木は「ダメです」のひと言で赤字部門を切って行った。

 鈴木はCSKの経理部門の担当者で経理マンにありがちな冷徹なところがあった。同時にこれがCSKの当初からの作戦であった。赤字部門を容赦なく切り、赤字を実体以上に膨らまし、株価を下げ、下がったこところで増資に応じ、51%以上の株式を握るという作戦だ。買収ファンドの常套手段である。

 2012年8月現在、シャープが同じようなケースで苦しんでいる。同社はテレビ販売の不振から業績が急激に悪化、2012年3月27日に台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業がシャープの第三者割り当て増資を引き受け、発行済み株式の9.9%分を出資すると両社で発表した。

 価格は1株550円、総額670億円を2013年3月までに払い込む、としていた。

 ところが、シャープの業績はさらに悪化、2013年3月期に2500億円の最終赤字を見込んでいる。このため、株価は2012年8月14日現在、196円と大きく下げている。

 そこで、鴻海側は出資比率の引き上げを求めている。これに対し、シャープは出資比率が10%以上になることを警戒、提携交渉は難航している。シャープは業績悪化が表面化する前に鴻海に出資してもらうべきだった。

 アスキーの話に戻ろう。同社の株価引き下げ作戦は大川自身も知っていた可能性がある。大川は「しばらくの間、ガマンしてくれ。必ずあとで社長に復帰してもらうから」と西に因果を含めた。

 西は切り刻まれていくアスキーの解体作業を見ながら、大川の約束を信じて時を待った。98年3月期の決算は惨々たるものとなった。特別損失は456億円と膨大なものとなり、132億円の債務超過に陥った。ピーク時1万円を超えた株価は急降下、300円となった。

アスキーの稟議書が入ったダンボール箱

後ろ盾大川の死で暗転

 ここまでは大川の筋書き通りだったかも知れない。ところが、とんでもない事が起きた。大川が食道がんで倒れたのである。一時、放射線治療が功を奏して13センチのがんは奇跡的に消えたのだが、2000年12月、がんが再発した。

 がん再発の話を聞いた時、西は大川の再起が絶望的になったことを悟った。そして、翌年3月、大川は帰らぬ人となった。後ろ盾を失ったアスキーは投資ファンドのユニゾンに売られ、その後、角川書店に渡り、細々と生きている。しかし、もはや西が社長をしていた頃の輝きはない。「ただの出版社になってしまった」と西は嘆く。 

 西は95年から03年までの全稟議書をダンボール箱2000個に保管している。この稟議書を紐解けば、アスキー崩壊の全容がより明らかになるだろう。

 歴史にはイフはないが、もし大川が健在で、西に資金繰りの経営学を伝授してアスキー社長に復帰させていたら、アスキーは再び輝きを取り戻していたかも知れない。西は素晴らしいビジネスセンスを持っているが、財務のセンスにやや欠ける。大川功の薫陶を得て、財務の知識を身に付けていたら、アスキーと西の運命は変わっていたかも知れない。

 CSKは大川亡きあと福島吉治、青園雅紘と2代続けて野村證券出身の社長が経営のカジを取った。CSKグループの中核企業であるセガがソニーのプレイステーション2に破れたため、誰が社長になっても難しいカジ取りを迫られたと思うが、もし、ITに詳しい社長が選ばれていたら、事態は変わっていたかも知れない。

 大川は一時、後継者にグループ企業のベルシステム24社長の園山征夫を考えたことがあった。園山は大川の秘書からベルシステム24の再建に赴き、見事、同社を超優良企業に変身させた。その経営手腕を大川が認め、自分の後継者にと考えたのである。

 この構想はいろんな事情があって、実現しなかったが、もし、園山社長が実現していたなら、CSK、園山、西の運命は違ったものになっただろう。

 園山は86年にベルシステムの再建のために専務として入社、87年、43歳で社長に就任、約20年間で売上げを1165億円と約60倍に、経常利益を160億円と160倍に成長させた名経営者。

 大川にその手腕を買われて、本体のCSK社長に乞われた。数字に明るく、組織経営も得意で、野武士的社員の多いCSKグループの中では異色の存在。

 数字に明るく組織経営の得意な園山とコンピューター、インターネットに強い西がコンビを組んで、CSKグループを率いたなら、面白い企業になっていただろう。

 しかし、大川は2000年ごろから健康が優れず、園山や西を優遇する気力、体力がなかった。園山ー西の後継体制は幻に終わった。

 西は今、世界一のアンプづくりに時間を割く一方、尚美学園大学でメディア論を学生に教えている。

 その西に若いベンチャーに教訓として伝えることはないか、と尋ねると、「松下幸之助の“見切りの値打ちは一万両”」と答えた。

 借金をして、大型投資をしたことに対する悔いが残っているように思えた。

 ベンチャー企業は撤退作戦が概して苦手である。攻めの経営にはめっぽう強いが、いざ守勢に立たされると、もろくも崩れ去る。

 二枚腰が必要なのである。孫正義は基本的には攻めの経営者だが、守りにも強い。創業して間もなく肝臓病で入退院を繰り返しながら、苦境を乗り切ったし、創業の頃、新規事業の失敗で10億円の赤字を作ったこともある。この時は新電々に回線を切り換えるアダプターを開発、フォーバル会長の大久保秀夫の協力を得て乗り切った。

 創業期に苦しんだベンチャー企業家の方があとになって、成功している。西は初め恵まれ過ぎたか。

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