会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2013年8月号掲載)
日本企業の「インターネット部」を標榜するGMOインターネットグループ。ドメインからサーバー、ホームページ作成などネットにかかわるあらゆるサービスを手がけ、年商1000億円達成目前にある。若きリーダー熊谷正寿の波乱に満ちた半生をたどってみよう。
【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、相澤英祐
楽天の三木谷が創業する6年前の1991年に創業したのがGMOインターネット会長兼社長の熊谷正寿。90年代には、多くのITベンチャーが誕生した。
サイバーエージェント、フリービット、ライブドアなど、名だたるベンチャー企業が名乗りをあげた。
GMOインターネットのグループ企業数は67社、うち上場企業6社、アルバイトを含む従業員数3200名はソフトバンク、楽天に次ぐ企業規模だ。その総帥、熊谷正寿は今年7月、50歳になる若きリーダーだ。
ITベンチャー界切ってのハンサム経営者。端正な容貌、礼儀正しい仕草、ジムで鍛えた痩身の体躯で社内を闊歩する。一見、非の打ち所のないベンチャー企業家のように見えるが、熊谷の50歳までの人生は波乱に満ちている。
企業家は両親からどんな遺伝子(DNA)を受け継ぎ、どんな青少年時代を過ごしたかによって、大きく運命が左右される。たとえば、ソフトバンク社長の孫正義は在日韓国人(90年代前半に日本に帰化)として生まれ、少年時代は貧乏と差別に悩まされた。しかし、少年時代の過酷な環境が企業家にとって最も大事な負けじ魂を育むことになる。熊谷も孫に負けず劣らずの少年時代を過ごした。
高校時代の熊谷
ここに1枚の写真がある。高校時代の熊谷を写した写真だ。帽子をあみだにかぶり、Yシャツの一番上のボタンは外れている。ちょっと不良学生に見える。事実、熊谷は國學院高等学校を2年の夏に中退した。なぜ、熊谷はグレたのか。そのためには熊谷の生い立ちに遡らなければならない。
1963年7年17日、母の実家である長野県東部町(現東御市)に生まれた。父、熊谷新(あらた)は東京で不動産、パチンコ、アミューズメントなどを経営する実業家。父方の祖父は原敬の側近で、立憲政友会の副幹事長を務めた熊谷巌である。母、百代(ももよ)は東京でテーラーを営む商人の娘であった。父方の祖母、貞子は江戸四大道場の一つ伊庭家につながる人で躾に厳しい人だった。熊谷には政治家と実業家と剣豪の血が流れている。
小、中学までの熊谷は一人旅の好きな少年だった。人を驚かすのが好きで、遠くまで1人で出かけて行き、1週間後ぐらいに帰って来て、大人たちを心配させたり、驚かせては悦に入っていた。
北海道にもよく一人旅した。中学2年の時、日本海経由で北海道に行った。周遊券を購入してSLにも乗った。知床半島のウトロまで足を伸ばしたところで財布を失くしたことに気がついた。仕方がないので大学生と偽ってアルバイトをして何とか東京に帰ってきた。その頃から1人で生きていく知恵や行動力を持っていた。
中学時代、担任教師に嘲笑される
中学3年の夏休みが終わって学校に行ってみると、学校はすっかり受験モードに変わっていた。担任の先生が熊谷を職員室に呼び、尋ねた。
「熊谷はどこの高校を受けるんだ?」
熊谷は男女共学の高校に行きたかったので、東京渋谷の「青山学院か國學院を受けようと思っています」と答えた。担任の先生は嘲笑しながら、周りの教師に同意を求めるように「熊谷が青学か國學院を受けたいそうです。受かりっこないですよね」
その時の屈辱は今も忘れられない。
「よ?し、今に見ておれ。必ず合格してみせる!」。担任教師の嘲笑に耐えながら、心の中でそう誓った。
それから、5ヶ月間、熊谷は寝食を忘れて受験勉強に没頭した。家中に張り紙を張り、記憶すべき数字や文章を暗記した。そして、受験。偏差値は青学、國學院ともに変わらなかったが、競争率は國學院が低かったので、國學院を受けた。
結果はみごと合格。4月、入学式に行くと、学長室に呼ばれ、「君は3年後東大を受験してほしい」と学長に直々励まされた。もちろん、入学式では入学生を代表して宣誓した。
「俺が本気を出せば、こんなものだ」。熊谷は天狗になった。そして、勉強をサボった。入学して成績は急降下した。2年の半ばには600人中ほぼビリというところまで下がった。再び、教師たちの冷たい視線にさらされた。学校が嫌になった。両親に頼み込んで退学願いを書いてもらい、その夏、退学した。
早くから家業を手伝っていた熊谷
17歳の時だった。企業家になるチャンスがめぐって来た。居間で両親が何か話し合っている。
「お前の実家のある長野に出したパチンコ店の成績が思わしくない」
「どうするの。撤退するつもり?」
隣室で両親の話を聞いていた熊谷が思わず言った。「俺が行って建て直して来るよ」
「よし、行ってみろ。そして建て直して来い」。父、新が言った。
熊谷は長野のパチンコ店に店長として乗り込んだ。同店は1200坪の駐車場があり、従業員も約40名いた。長野ではトップクラスのパチンコ店だった。
1日目、熊谷は店長として従業員に挨拶した。下手に出たつもりだったが、従業員には生意気な2代目に写った。従業員の態度はよそよそしくて、熊谷の意気込みは空回りした。ここで初めて、仲間のやる気を引き起こすコツを教えられた。
初め数ヶ月は従業員の抵抗にあって挫折したが、2年半後には見事、地域一番店にして東京に凱旋した。東京に戻ると、社長室長として父親を補佐し、帝王学を学んだ。
父、新は熊谷を厳しく育てたいと思っていたらしく、安い給料で夜遅くまで仕事をさせた。少し早く帰ろうとすると、「もう帰るのか。経営者は誰よりも遅くまで仕事をしなければならない」と説教した。
家計はいつも火の車。東京・江戸川橋のボロアパートに住み、ドライヤーと電子レンジを同時に使うと、ヒューズが飛んでしまう15アンペアの部屋。屋上にあるヒューズボックスを開けられる朝までロウソクの灯で過ごした夜が幾度かあった、と著書「20代で始める『夢設計図』」の中で告白している。「このまま貧乏と多忙に押しつぶされて人生を終わるのか」と焦りを覚えていた。
それでも自分が親父の跡を継ぐと思えばこそ、辛い仕事にも耐えていた。
元就の三本の矢に動転
ところが20代前半の時、父親の新が社長室で妙なことを言った。
「正寿、毛利元就の三本の矢のことは知っているか」
「もちろん知っているよ。それがどうしました」
「兄弟3人が協力したから、毛利家は中国地方を制覇出来たし、幕末の長州藩の活躍もあった。正寿も兄を助けて熊谷興業を発展させてくれ」
「何、僕に兄がいる!」それまでの熊谷は自分がこの会社を継ぐものと思っていた。ところが、新には別に2人の子供がおり、長男を社長とし、熊谷は数ヶ月年上の兄を助けてくれとの父親の言であった。驚天動地とはこのことだ。熊谷はこの世のことがすべて信じられなくなった。
心が病んだ。人生最悪のことに直面した。後年、熊谷は消費者金融会社を買収、過払い問題で約400億円の損失を出し、会社存続の危機にさらされたが、衝撃波という点では20代前半に受けた心の傷はそれに劣らないものだった。
貧乏、ハードワーク、異母兄弟の存在の三重苦により、熊谷の心はズタズタになった。この頃から父親との意見の衝突も多くなった。熊谷は人を驚かし、人を喜ばすのが好きなタイプ。これに対し、父、新は昔風の経営者で、いわゆる商売人だった。
そして、27歳の時、決定的な破局が訪れた。あることで意見が衝突、父に殴られて熊谷興業を退社した。退社と相前後して、熊谷は手帳に自分の夢を書く習慣がついていた。
夢、目標を持つことを思いついた。
「15年後の35歳の時に自分の会社を上場させる」という未来年表を作成したら、絶望感がなくなり、腹の底からファイトが湧いてきた。
1991年5月ボイスメディアという会社をつくり、ダイヤルQ2を利用したパーティラインという電話会議装置の販売を始めた。東京・秋葉原に行って、部品を購入、見よう見まねで装置を組み立てた。この商品が大ヒット、月に2000万円の売上を記録した。28歳の時である。ここから熊谷はITベンチャー業界に華々しくデビューした。