MAGAZINE マガジン

【ベンチャー三国志】Vol.21

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

インターネットベンチャーの寵児に

(企業家倶楽部2013年10月号掲載)

 99年8月、GMOは日本発の独立系インターネットベンチャーとして、上場を果たす。時価総額は1000億円を超え、ネットベンチャーの寵児に躍り出た。余勢を駆って、まぐクリック、GMOペイメントゲートウェイなどグループ企業をたて続けに上場させた。そして、55年計画を発表、熊谷90 歳の時に売り上げ10 兆円を達成すると大風呂敷を広げた。その前途は洋々のように見えたが――。(執筆陣:徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、相澤英祐)


美容事業を始める

熊谷正寿は1991年5月、28歳の時にボイスメディアという会社をつくり企業家のスタートを切った。

 パーティラインという電話会議装置をつくり、大ヒットした。月に2000万円の売り上げが立った。上々の滑り出しといえる。ただ、新会社には難点があった。ダイヤルQ2を利用した事業だったため、高額課金や未成年者の利用などで社会問題化してきた。

 「これは長続きしない。別の事業を考えよう」と思った熊谷は美容事業を始めた。GMOが美容事業を手がける??。今の読者から見れば違和感を感じると思うが、案外、当時の熊谷には自然だった。

 まず、熊谷の母親が美容師の家系であったほか、叔母も美容院を経営していた。熊谷は子供の頃、夏休みには叔母の美容院に遊びに行き、終日を過ごした。そんなこともあって、美容事業を始めた。

 あるアメリカの大手美容会社の代理店となった。三越など大手百貨店に7店舗出店、化粧品店とエステを経営した。東京・青山と大阪・梅田にエステ専門店を開設した。女性の美容部員約100名を雇い、ハワイなどに社員旅行したこともある。「日本最大級の美容産業のオーナーになる」と熊谷は一時期本気でそう思ったこともある。

 しかし、美容事業は表向き華やかだが、競合も沢山いて、簡単ではない。エステは前受け金が入って来て、資金繰りは楽なのだが、化粧品事業は商品開発など先にカネが出て行く。アメリカで作った化粧品を日本に持って来るのだが、アメリカでは許可されている防腐剤が日本では許可されておらず、同じブランドでも日本で作り直さなければならないこともあった。事業がなかなか軌道に乗らなかった。

インターネットにめぐり合う

 どうしようかと迷っている所へ、インターネットとめぐり合った。熊谷は10代後半から雑誌や新聞などを見て、ありとあらゆる情報を収集する習慣があった。その情報収集の中からインターネットの足音を聞きつけた。

 「これからインターネットをやる人が増えるだろう。ネットの接続であるプロバイダー事業をやろう」と思い付いた。

 当時、ネット接続事業は申し込んでから口座引き落としの手続きまで約1カ月かかっていた。これをダイヤルQ2とプロバイダーを結びつけ、1日でネット接続が出来るようにした。革命である。95年、ボイスメディアからインターキューに社名変更し、本格的にインターネット事業に乗り出した。

 インターキューの事業は爆発的にヒットした。これは世界初の発明だった。同時にこのブロバイダー事業のフランチャイズ・チェーン(FC)化を考えた。自社だけで全国展開すると、運転資金が莫大に要った。そこでFC化し、1エリアを売って、2エリアを直営にするやり方である。このFC化も世界初の試みだった。

 この辺りから熊谷はインターネットの寵児ともてはやされ、99年、同社をジャスダックに株式上場、未来年表に1ヶ月遅れ36歳で株式上場の夢を果たした。

 インターキューの株式上場と相前後して、技術担当役員、リチャード・リンゼイと米国西海岸のナパバレーを訪れた。一流大学を卒業した技術者はITベンチャーには来てくれず、NTTや東芝、ソニーなどに就職した。そこでアメリカの退役軍人だったリチャードにインターキューの技術担当役員になってもらった。

 熊谷もリチャードも酒飲みでナパバレーにワインを飲みに行こうということになり、ナパバレーを訪れた。 
 ワインを飲んだ帰り、リチャードに案内されて、ある施設を訪れた。部屋に入ると、見知らぬ装置が並んでいた。 
 「リチャード、これは何だ?」 
 「サーバーですよ」 
 「サーバーって何だ?」 
 「情報をあらゆる企業や個人に配信する装置ですよ」

 察しの良い熊谷は「これは次の事業になる」とピンと来た。実はプロバイダー事業を始めた時、熊谷にはひとつ不安があった。「仮に、日本人全部がインターネットを利用したとしても、最大1億2000万人。1億2000万人全部がインターキューの顧客になっても、接続してしまえば、それ以降は売り上げが立たない」。

 しかし、情報なら無限に広がる。つまり、企業も個人も情報も無限に発展し続けるだろう。「サーバー事業は無限に広がる。プロバイダー事業の次はサーバー事業で行こう」と決めた。

 さっそく、日本に帰って、データセンターとドメイン事業に着手した。ドメイン――。電話で言うなら電話番号のようなものだが、それまでは英語でしかも値段が高かった。熊谷は日本語のドメインを格安の1万円で販売した。

 あっと言う間に1万社が導入した。月1万円の商品が1万社なので、1億円となった。同時にリチャードを中心とする同社の技術陣をICANNというインターネットの国際管理団体にボランティアで派遣した。その功績が認められ、アジアで最初のドメイン登録事業者の免許をもらった。インターキューは「お名前.com」で売り出し、爆発的にヒットした。こうして、99年8月27日、ジャスダックに日本初の独立系インターネットベンチャーとして上場を果たしたのである。

 時価総額は1000億円を超え、インターネットベンチャーのホープと見なされた。そして上場時に、証券会社のアドバイスに従って美容事業は撤退した。

 上場と同時に再び、未来年表を作成した。今度は55年計画で、熊谷が90歳になるまでの年表である。健康には、自信があり、90歳まで精一杯仕事が出来るだろうと思った。

 その時につくった55年計画では、最終的な売り上げが10兆円、従業員20万人、グループ企業数207社となっている。なんとも気宇壮大な夢である。孫正義も創業時に「兆円企業になる」とうそぶいたが、現在、米スプリント社を買収して売り上げ6兆円強、時価総額8兆円(日本3位)を実現した。熊谷の夢も荒唐無稽ではない。

孫正義に出会う

 世間も熊谷を注目した。注目した人物の1人が孫正義だった。上場直後に東京・麻布の孫の豪邸に呼ばれた。新市場、ナスダックジャパンを開設するので、運営会社の発起人になってくれ、という。

 東京・麻布の孫の自宅には、他の経済人も声を掛けられており、みんな秘書と車付きで来ていた。熊谷だけは歩いて1人で孫邸に乗り込んだ。

 都心のド真ん中に敷地面積1000坪の豪邸。ライバルのビル・ゲイツはシアトルに敷地面積1万坪の邸宅に住んでいるということだから、それに比べると、孫の邸宅は小さい。

 とは言っても、孫に案内されて邸宅の中に入ると、地下に孫自慢のゴルフの練習台があった。この練習台のスクリーンには、ペブルビーチなど世界の有名コースが映し出される。「今晩はぺブルビーチを回るか」と言って、セットすると、同コースの1番ホールが映し出される。

 孫がドライバーで270ヤードかっ飛ばすと、スクリーンには第2打地点から望むグリーンが映し出される。アイアンで第2打を打てば、ボールがグリーンに落ちる。孫は毎晩1ラウンド回って、昼間の仕事の疲れを癒す。

 熊谷はこの練習台を見て、「いつか、自分も豪邸を持ちたい」と思った。そう思うと、腹の底から闘志がわいてきた。

 孫は熊谷に「熊谷さんの会社からナスダックジャパンに会社をドンドン上場して下さい」とハッパを掛けた。

 熊谷は孫の期待に応えて、さっそく「まぐクリック」をナスダックに上場した。しかも、会社設立から364日での短期上場。この日本最短記録はまだ破られていない。この時に、西山裕之(現GMOインターネット専務)をスカウト、彼が大活躍した。

 財務担当専務の安田昌史もまぐクリック上場時に出会った仲間だ。安田は公認会計士で、監査法人センチュリー(現あづさ)で働きながらインターキューに来ていた。2000年ごろGMOインターネットに入社した。

 熊谷は入社を誘い、会社をグループ化するのが実にうまい。決して強引には傘下に納めない。安田を誘った時も「インターネットは産業革命だ。一緒にやろうよ。つまらないことをやるよりこっちの方が面白いよ」と笑顔で誘う。

 熊谷は父、新の言葉をよく憶えている。「一つのカゴに卵を盛りつけてはいけない。カゴを落としたら、全部割れてしまう」と映画館、パチンコ、不動産業、レストランなどを手がけていた。

 熊谷は父親の教えを守り、いろんな事業を考えた。その一つが美容事業だった。しかし、考えつく事業は皆、メインストリームではなかった。大ていは隙間産業だった。

 そこで、インターネットと出会った。「これだ!これはもしかしたら、すごいことになる。これこそマルチメディアの本命だ」と思った。当時はインターネットよりマルチメディアという言葉が流行っていた。 
 05年4月には、連結子会社GMOペイメントゲートウェイを東証マザーズに上場させた。これに先立ち、インターキューは01年にグローバルメディアオンライン(GMO)と社名変更し、04年2月に東証2部に上場している。

 GMOペイメントゲートウェイはインターネットの決済会社だが、この会社も2つの会社を合併させて、グループ化した。まず最初にグループ化したのはペイメントワンで、村松竜(現GMOペイメントゲートウェイ副社長)が社長として経営していた。

 村松は大手ベンチャーキャピタル、ジャフコの社員で、インターキューに投資した担当者。熊谷にとっては恩人の1人だ。村松はインターキューが上場後、時価総額が1000億円強となったため、ジャフコの中でMVPに輝いた。その功績が認められ、ジャフコアメリカの駐在員となり、その後ネット決済会社、ペイメントワンを設立、独立した。

 しかし、ネット決済会社は事業が拡大すればするほど運転資金が必要。資金がショートし、熊谷の所に相談に来た。熊谷はペイメントワンを買い取り、ネット決済事業に参入した。

 その結果、これまで取り引きしていたネット決済会社が要らなくなり、取り引きを停止した。停止された決済会社の社長が熊谷の所に飛んできた。それが現在GMOペイントゲートウェイ社長の相浦一成である。

 相浦は明治大学ラグビー部出身の猛者で、威風堂々としていた。熊谷は応接室で相浦と対峙した。相浦の言葉は紳士的だったが、迫力があった。

 相浦のカードコマースサービス(CCS)はMTI社長の前多俊宏が大株主。前多にとっては、CCSはコア事業ではなかったので、前多のCCS株を37 億円でGMOに売ることになった。これによって、ペイメントワンとCCSを合併させ、GMOペイメントゲートウェイにした。同社は05年にマザーズ、08 年に東証一部に昇格、売り上げは47億円(2012年9月期連結決算)と小さいが、時価総額は約400億円あり、GMOグループの3割近くを支えている。

梁山泊型仲間づくり

 熊谷は決して無理をせず、ゆるやかな提携関係をめざす。「私は資本提携の戦略をM&Aだとか買収だとかという言い方をしない。“七人の侍型”とか“荒野の7人型”とか“梁山泊型”などと表現する。お互いに支配し合うのではなく、志の高い者が力を合わせて大事を成すイメージを大切にしている」という。ベンチャー界の貴公子らしい。

 「ベンチャー同士で潰し合って、どうするんだ。本当の敵は他にいるのではないか」と警鐘を鳴らす。たとえば、NTTやKDDIは今は回線拡大の方に力を注いでいるが、回線が一段落したら、熊谷たちの事業領域に参入する可能性は十分にある。その時に備えて「ベンチャー同士は大同団結すべきではないか」というのが熊谷の論理なのだ。

 「うちはベンチャー企業の集合体のようなもの。だから私の部屋は社長室とは言わず、役員会議室と言っている」と熊谷は語る。

 サイバーエージェントとの資本提携を呼びかけた時も熊谷流に終始した。1998年秋、熊谷はネット広告大手として将来性を期待されたサイバーエージェント社長の藤田晋を訪れた。

 熊谷は持ち前の笑顔を振りまきながら、こう切り出した。

 「サイバーエージェントに出資させて下さい」

 子会社化は困ると思った藤田はやんわりと断った。

 「30%とか40%の出資に応じる事は出来ませんが、多少の出資増なら喜んで」

 脈がないと悟った熊谷は「わかりました」と、その場は引き下がった。

 ところが、ここからが熊谷流。何かの理由をつけては足繁く藤田の所に通い、それとなく買収を持ちかける。藤田は熊谷に買収をあきらめさせるのに相当気を使った。お互いに資本を持ち合い友好的な関係をこわしたくなかったからだ。

 藤田は当時を振り返りながら述懐する。

 「強引にやろうと思えば、買収できたのに、熊谷さんはそうしなかった」

 熊谷流M&Aはあくまでスマートだ。楽天の三木谷浩史は強引な手法でTBSを買収しようとして失敗した。もし、熊谷のように笑顔で迫っていたら、あるいはTBS首脳陣も気を許し、インターネットとテレビの融合が実現していたかもしれない。

 こうして、熊谷はGMOクラウド、GMOアドパートナーズ、ペーパーボーイなども上場させ、ソフトバンク、楽天に次ぐインターネット企業グループに成長していった。

 正に、順風満帆、2053年(熊谷90歳)に売上高10兆円、従業員数20万人の大目標に向かって、航海しているように見えた。

 しかし、とんでもない大嵐が行く手に待ち構えていた。それは、熊谷がかつて味わったことのない試練だった。

一覧を見る