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【ベンチャー三国志】Vol.23

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

孫正義、名キャッチャーを失う

孫正義、名キャッチャーを失う

握手するソフトバンクの孫正義社長とスプリントのダン・ヘッセCEO



(企業家倶楽部2014年1・2月合併号掲載)

企業家には、喜怒哀楽がつきものだ。絶頂期もあれば、悲嘆にくれる時もある。孫正義は2013年10月21日、盟友の笠井和彦を失った。笠井の「お別れの会」で孫は消え入るような声で「笠井さん、寂しいです」と語った。それでも、米国進出は粛々と進めなければならない。久し振りに孫正義の近況を紹介しよう。(文中敬称略)
【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、相澤英祐

故・笠井和彦 氏

笠井和彦との別れ

「笠井さん、寂しいです。……本当に辛いです」 絞り出すような小さな声。

 2013年11月18日、ソフトバンク前取締役、福岡ソフトバンクホークス前社長の故・笠井和彦の「お別れの会」が東京と福岡の2会場でしめやかに開催された。球団関係者らを含めて約2500名が参列した。

 まず、最初にお別れの会委員長の孫正義がお別れの言葉を述べた。日頃は威勢のいい孫が消え入るような、か細い声で笠井の遺影の前に立ち、冒頭のお別れの言葉を述べ、続いて笠井との思い出話を語った。

 孫が初めて笠井に会ったのは、笠井が富士銀行(現みずほ銀行)の副頭取の頃。何かの融資案件で笠井を尋ね、融資をお願いした。笠井は時おり鋭い質問をするが、その目は優しく、「そうですね」と孫の答えにうなずいてくれたという。

 笠井が定年間近になり、富士銀行を退社すると聞いた孫はすぐさま笠井に電話した。「笠井さん、ソフトバンクに来て下さい」。

 その時、笠井はどこかに再就職が決まっていたようだが、孫の熱心な誘いにほだされてソフトバンクに入社した。2000年6月のことである。

 孫はお別れの会でこう語る。「笠井さんの友だちは『ソフトバンクに行って大丈夫か。ネットバブルの崩壊で株価が100分の1になった所だ』と忠告した。(私は)そうなったら笠井さんの晩節を汚すことになり申し訳ない。そうならないように頑張りました」

 さらに続ける。「ちょうどそのころ、ADSL事業を手がけ、1000億円の赤字が4年も続きましたね。その時も笠井さんは大丈夫行きましょう、と私を励ましてくれました」

 「(2006年3月)ボーダフォン買収の時、実は50%の株式をソフトバンクが握ればいいじゃないかと思ったのですが、笠井さんは、どうせなら100%握りましょう、と言いました。いつも『行きましょう』と言ってくれました。私が資金調達は大丈夫ですか、というと『大丈夫です』といいましたね」

笠井、孫を叱る

 そのあと、孫から衝撃の告白があった。「2008年9月のリーマンショックのあと、ソフトバンクの業績は順調に拡大していたのですが、いろいろアナリストなどがうるさいので、上場をやめて資本市場から撤退しようかと相談したら、笠井さんは『絶対に反対です。そんなことでいいんですか。夢を小さくしていいんですか。身を挺して止めますよ』と言われました」

「その後、(2013年7月の)米スプリント・ネクステル社の買収がありました。資本市場にとどまっていて、よかったです」

 孫は最後にこう締めくくった。「笠井さんは若いころ、野球が好きでキャッチャーをやっていたそうですね。僕にとって最大のキャッチャーでした。僕が怒って部下を叱りつけると、『肩の力を抜きましょう』と諭してくれました」

「ソフトバンクホークスの選手には、上から目線にならないようにさん付けで呼んでいましたね。ソフトバンクは前進します。頑張ります。ありがとうございました」

 約27分のお別れの言葉。夫人の笠井直子ら遺族に一礼して着席した。白いハンカチを取り出し、瞼の涙をそっとぬぐった。

相場師と詩人の2つの顔

 笠井は1937年1月16日、香川県高松市に生まれた。1959年3月に香川大学経済学部を卒業、4月に富士銀行(現みずほ銀行)に入行した。

 入行したあとの笠井の足跡を日本経済新聞編集委員の鈴木亮が同新聞電子版に掲載している。その抜粋が「お別れの会」のしおりに転載された。

 その文章を読むと、笠井は為替や債権の売買で勝ち続けた勝負師の顔を持つ半面、本当は詩人になりたかったようだ。

 入行2年目に創立80周年行事として、行内で小説や詩を公募した際も1位となり、賞金5000円をもらった。今の感覚なら50万円くらい。大阪の堂島支店の同期3人で連日、十三のホルモン焼き屋に繰り出し、大騒ぎした、という。

 笠井が、ディーラーとして真価を発揮したのが96年の債権相場だ。(日銀の)利上げはないと読んだ笠井は、売り一色の債権相場で果敢に買い向かった。果たして利上げはなく、債権相場は一転、急騰し、富士銀行はこの期、莫大な債権売買益をあげた。ライバル行からは「9回裏逆転満塁ホームラン」とやっかみの声が出た。

「もし利上げがあったら大損だったから内心ハラハラしたが、なるようになると腹をくくっていた」と抜粋でその時の心境を吐露している。

スプリント買収

 ソフトバンクは2012年10月11日、米携帯電話3位のスプリント・ネクステルを買収する方向で交渉に入ったと発表した。売買額はこの時点で1兆5千億円を超えるといわれた。

 1年前の2011年7月の創業30周年の式典で「もう1兆円を超える大型投資はしない」と孫は言明した。「これから大人のソフトバンクになり、借入金をゼロにして、次の世代に引き継ぐ、それが次の世代への礼儀だ」とまで言い切っていた。

 ところが一転、1年後にスプリント社の大型買収に踏み切った。孫の心の中で何が起こったのだろうか。心境の変化について、孫は何も語らないが、2つあると思う。

 1つは組織の弛緩である。孫が「やれやれ」と思ったと同様に代表取締役副社長の宮内謙以下の社員も「やれやれ」と思ったに違いない。そう思った瞬間からソフトバンクの社内にホッとした空気が蔓延していった。

 大企業病である。大企業病は大手企業だけに起こる病弊ではない。ベンチャー企業でも感染する。大体、年商100億円になった段階かもしくは株式上場して、経営トップが「やれやれ、これで銀行融資の個人保証から解放される」と思った時である。この時から大企業病が忍び寄る。

 では、大企業病とは何か。ひとことで言えばチャレンジ精神を失うことである。守りの姿勢になった時、組織は崩壊に向かって真っしぐらに進んで行く。

 孫はそれに気付いた。「いかん、俺が守りに回ってどうする」と思ったのではないか。 もう1つは、企業家の性(さが)である。創業経営者は起業したときから乗るか反るかの命懸けの勝負をしている。常人から見れば、到底越えられない峻険を越えようとする。毎日が真剣勝負、毎日が剣が峰なのである。

 ファーストリテイリング会長兼社長の柳井正は2013年8月期で売り上げ1兆円を達成した。決算発表の席上、記者団から1兆円達成の感想を聞かれたとき、柳井は「単なる通過点、われわれの目標は2020年の年商5兆円です」と答えた。

 孫も創業以来、常に乗るか反るかの勝負をしてきた。創業間もない頃、ある事業が失敗し、10億円の借金を抱えた。その時は起死回生の新規事業を考え出し、虎口を脱した。その後も大勝負をかけた。ADSL事業では約3000億円の赤字を出し、ボーダフォン買収では2兆円をかけて買収、携帯電話事業に進出した。2兆円の大型買収は日本でも初めてで、ソフトバンクの自己資本は10%を切った。大手ジャーナリズムはこぞってボーダフォン買収は失敗すると予想した。

企業家はいつも剣が峰

 企業家は乗るか反るかの勝負をかけていないと、生きている気がしないのである。孫はその中でもリスクテイカー(勝負師)なのだ。そんなところへスプリント社の買収話が舞い込んだ。孫は何度もシュミレーションを繰り返し、スプリント社の再建に十分の自信を得た。財務担当の笠井和彦も後押しした。孫は再び大勝負に出た。2012年秋に買収を発表した。

 途中、衛星放送会社の米ディッシュ・ネットワークが対抗買収に名乗りを上げ、買収総額は15億ドル(1500億円)増えて、216億ドル(2兆1600億円)に膨れ上がった。スプリント社は5000万人の契約者を擁するものの、ワイヤレス、AT&Tの上位2社に大きく水を開けられ、連続6期赤字経営を続けている。借入金も2兆円強ある。これもソフトバンクの負担となり、トータルの有利子負債は約7兆5657億円に達する。総資産15・6兆円からすれば、許容範囲内ではあるが。

 ここで米国の携帯電話業界の勢力図を見てみよう。1位が通信大手のベライゾン・コミュニケーションズの子会社、ベライゾン・ワイヤレスで、2012年の売上高は前年比4%増の1158億ドル(約11兆5800億円)、契約数(2013年3月)1億1675万件に達する。2位はAT&Tで売上高は同1%増の1274億ドル(12兆7400億円)、契約数1億725万件となっている。第3位がスプリントで、売上高が同5%増の353億ドル(3兆5300億円)、契約数5521万件となっている。

 1位と2位が接戦で、3位のスプリント社は上位2社に比べて売り上げは3分の1弱、契約数では2分の1にとどまっている。このため、スプリントは2012年12月期まで6年連続の連結最終赤字で、有利子負債は243億ドル(約2兆4300億円)に上っている。

 スプリントの収益力が上位2社に比べて劣るのは、1契約あたりの月間平均収入(ARPU)がAT&Tより7%劣る61ドルと低いため。このこともあって、設備投資も少い。トップのベライゾンが携帯事業に08年から12年までに399億ドルを投じて高速通信サービス「LTE」の拡大に力を入れたのに比べ、スプリントはその3分の1の投資額にとどまっている。その差は2013年も広がっている。

4位社を買収も

 この劣勢を盛り返すには並大抵ではない。まず、手を付けるのは4位のTモバイルUSAとの合併であろう。TモバイルUSAの契約数は4300万件、合併すれば9800万件となり、上位2社に肉薄できる。孫お得意のM&A作戦は十分ありえる。TモバイルUSAのCFO、ブラクストン・カーターも「合併はあり得るかの問題ではなく、いつあるかの問題だ」と言い切る。

 3、4位連合を組んだうえで、通信品質の向上とサービス内容の強化、料金引き下げを敢行するのではないか。06年3月にボーダフォンを買収し、NTTドコモ、KDDIの2社を追撃した時には、アップルのアイフォンが強力な武器になった。

 孫はアップルの創業者スティーブ・ジョブズに強烈に働きかけ、日本国内でのアイフォン販売権を手に入れた。当時はNTTドコモがアイフォン販売交渉で先行しているといわれたが、孫とスティーブ・ジョブズとの直談判でソフトバンクがアイフォンの販売権を得た。ソフトバンクは08年7月からアイフォンを独占販売、ドコモ、KDDIとの差を詰めた。

 スプリント社の再建では孫はどんな秘策を持っているのだろうか。

 スプリント社の再建は時間との競争である。悠長に構えているわけには行かない。スプリント社が上位2社に劣っているのは、回線のつながりやすさと速さである。これを半年か1年で解消し、まずは赤字経営を止めなければならない。

 孫はまず、米国での司令部を確保した。シリコンバレーのハイウェー101号線に面した交通至便なところに2013年4月に1棟目を7月に2棟目を確保した。スプリント社の本社はカンザス州オーバーランドパークにあるが、同社幹部とソフトバンクの社員をシリコンバレーに集め、陣頭指揮を執っている。新オフィスは1000人を収容できると言われ、米国進出の司令部となる。孫は月のうち10日ほどシリコンバレーに滞在し、矢継ぎ早に指令を出す。

「明日午後4時に来てくれ」と孫が指示を出す。

「明日4時ですね。場所は東京本社ですね」と孫の弟である孫泰蔵が答える。

「違う、違う。シリコンバレーの方たい。今晩飛行機に乗れば間に合うだろう」

「え、えっ!シリコンバレーですか。不可能じゃないけど……」

 孫には日本もアメリカもない。あるのは唯ひとつ。世界を舞台に駆け回ることだ。



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