会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2015年6月号掲載)
【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、相澤英祐、柄澤 凌
インターネット総合研究所の時価総額は一時、1兆円を超え、ベンチャーの旗手として注目される。しかし、東証2部上場の粉飾決算会社のIXIを買収、地獄を見る。しぶとく生き残り、ブロードバンドタワー社長として、捲土重来を目指す。
IoTで再び日本をイノベーション活発な国に出来るか、藤原の手腕に注目したい。(文中敬称略)
藤原、インターネット総研を設立
1996年12月9日、藤原洋たちはインターネット総合研究所(IRI)を設立した。藤原はベンチャー企業家になったが、同社の立ち上げは最初、アスキーを中心とする共同出資会社としてスタートするはずだった。
ところが、この共同出資会社構想がある専門紙にスクープされ、この構想に参加するはずだった日本テレコムとKDDが参加を見送り、時期をずらすことになった。
すでに4人の若者は同構想に参加するため、勤めていた会社に辞表を提出しているという。「こうなったら、自分たちでベンチャー企業を立ち上げるしかない」と考え、96年暮れにIRIを設立した。藤原が所長、大和田廣樹が取締役、新井佐恵子がCFOとなり、IRIが誕生した。オフィスは大手町建物所有の東京・神谷町ビル8階の50坪。創業の日、藤原は「ワンフロアだけで始めるが、3年後にはこのビルの全フロアを借り切り、上場させよう」と大風呂敷を広げた。
IRIはどんな会社をめざしたのか。藤原は「堺の鉄砲商人です」という。織田信長はじめ戦国武将たちは新しい武器、鉄砲で天下統一を狙った。現代はその鉄砲に当たるのがインターネット。インターネットを自由自在に駆使した者が天下を取る。「IRIはインターネットの使い方、インターネット網の布設をお手伝いします。つまり堺の鉄砲商人です」
その狙いが当たって、IRIは初年度から黒字になった。ところが、98年バブル崩壊とともに銀行が貸し渋り、IRIは資金繰りに苦しんだ。というのはインターネット事業のコンサルティングは取りかかりから終了まで8カ月かかり、終了と同時に代金が入金される。つまり、8カ月のタイムラグがある。そのため、銀行から資金を借りる手はずになっていたが、バブル崩壊で不可能になった。やむを得ず、ヤフーなど事業会社に増資に応じてもらい急場をしのいだ。
企業経営は時々思わぬ出来事に出食わす。「これで大丈夫」と思っていたら、次の難題が待っている。天は次から次に試練を与える。藤原にも難題が待ち構えていた。銀行の貸し渋りはその第一弾だが、その後にもっと恐ろしいわなが待っていた。その話は後半にしよう。
IRIは初年度から黒字基調だったが、自転車操業だった。ストック型事業に切り換える必要があると思い、インターネット・データセンター事業に乗り出した。同事業は米国エクソダスコミュニケーションズ社とグローバルセンターという2社のデータセンター大手があり、IRIはエクソダス社とエクソダス・ジャパンを設立することで合意寸前まで来ていた。
孫正義とネット・データセンターを立ち上げる
そこへ、ソフトバンク社長の孫正義が現れ、「うちとやろうよ。エクソダスより良い条件で」と誘いをかけた。孫正義は交渉上手だ。狙った獲物は逃がさない。米アジアグローバルクロッシング(AGC)89%、IRI11%の合弁会社、グローバルセンタージャパン(現ブロードバンドタワー)を設立することになった。AGCは米グローバルクロッシング62%、マイクロソフト19%、ソフトバンク19%の合弁会社である。
その結果、IRIの上場計画が現実味を帯びてきた。元々、藤原はIRIを設立した時から「3年後に上場だ」と言って来た。問題はどこの市場に上場するかである。孫正義は自身が設立したナスダックジャパンへの上場を熱心にすすめて来た。
インターネット総研、上場時価総額1兆円
しかし、ある人物から、東証にマザーズという新しい市場が計画されているという話を聞いた。さっそく東証を訪問したところ、ぜひ東証マザーズ第1号に上場するよう誘われた。取締役会に諮ったところ、ヤフーの井上が「第1号なら注目されていいのでは」と発言、東証マザーズへの上場を決めた。
1999年12月22日、創業3年目のIRIは東証マザーズ第1号企業として上場した。公募価格は1株1170万円、初値は5300万円で、翌年の1月20日までストップ高が連続し、最高7742万円を付けた。時価総額は1兆円を超えた。今から考えると、驚異的な数字だが、IRIへの期待が強かったと言える。
IRIは公募株1000株を発行し、総額117億円を調達した。まず、AGCとの合弁事業、データセンター会社であるGCTR社の設立に使った。しかし、GCTR社は顧客獲得が進まず、たちまち27億円の累損を抱えた。そこへ、米AGC社が倒産、IRIとソフトバンクは新会社を整理するかどうかの岐路に立たされた。
藤原と孫が話し合った結果、IRI62%、ソフトバンク38%の新しい会社、ブロードバンドタワーとして再出発することになった。2002年4月、大和田が初代社長、藤原が会長となった。ヤフーは「ウチも利用を増やすよ」との井上雅博(当時社長)のひと言でブロードバンドを支えた。
その後、新日鉄の子会社だったタウ技研を買収、社名をIRIユビテックと変更、社長に荻野司を据えた。年商65 億円の企業だったが、下請け企業から提案型企業に変身させた。ユビテックとブロードバンドタワーは、2005年6月と8月に連続して大証ヘラクレス(現・東証ジャスダック)に上場、時価総額は500億円と1800億円に達した。IRIグループは順風満帆、その総帥である藤原は新時代のベンチャー企業家としてもてはやされた。
粉飾決算会社を買収地獄の苦しみ
ところが、好事魔多しのたとえ通り、とんでもない落とし穴が待ち構えていた。2005年3月、親しくしていた新光証券から、東証2部上場のIXIの買収話が提案された。
IXIは1989年創業の地理情報システム(GIS)を核とした情報系システムの企画・設計・開発に強いコンサルティング会社。2002年3月に大証ヘラクレス、2004年4月に東証2部に上場した。時期を同じくして、IXIのメインバンクからも同様の提案があった。
2005年8月15日、IRIは143億8000万円でIXI社株を取得、子会社にした。IXI社の親会社は東証1部のCAC社。まさかIXIの株が不良債権化するとは思ってもみなかった。
ところが買収して、1年半が経った2007年1月、IXIは上場前から1000億円の架空循環取引による粉飾決算を行っていたことが突然発覚し、上場廃止となった。戦後最大規模の経済犯罪事件だった。
藤原は言う。「私がIXIの子会社化を考えたのは、まず、第一に新光証券からの買収提案があったからです。さらに、野村證券からのアドバイザーとしての強い推薦、厳正なる法務、財務デューデリの優良の評価、そしてなによりも新日本監査法人からの適正意見があったからです。全てが完璧でした」
東証から電話でインターネット総研上場廃止の連絡
IXIと取引のある大手IT関連企業5社にもヒヤリングしたが、IXIは優良企業との回答だった。IRIは安心してIXIを買収した。念のため、IXIの金庫も調べた。「現金がちゃんとありました」と藤原は言う。全てが完璧だった。
IRIはIXIの2006年12月期の半期決算報告書が納得出来なかったため、IXI株を1円で売却、約144億円の特別損失を計上し、IXIを連結決算から除外した。
東証から、限定付きでよいので、監査法人から「適正」意見をもらってほしいと要求された。そして、2007年5月23日、東証からIRIの上場を6月24日に廃止するとの電話連絡があった。
この時の電話連絡は「お役所の通達のように思えた」と藤原は振り返る。かつての日興証券、オリンパスなどの企業が不正経理処理による粉飾決算を行った場合でも上場廃止はなかった。東証はダブルスタンダードと言われても弁明の仕様がないのではないか。
「IRI自身にはまったく不正がないのに、粉飾決算を長年続けた東証2部のIXIを買収したばかりに、IRIまでが上場廃止処分を受けることになった」と藤原は自分の著書の中で不満をぶちまけている。
東証上場が廃止となってIRIの株価は急落し、時価総額は純資産の3分の1の約30億円に下落した。かつては1兆円まで急上昇した同社の時価総額はほぼゼロに等しい。
しかし、藤原には嘆いている暇はなかった。IRI株主の資産を守らなければならない。3つの保全策を取った。1つは東証への上場廃止差し止め仮処分申請。第2はIRIの他社による買収、そして第3はIXI株式売却によって利益を得た元親会社とIXI社の不正を見逃した監査法人相手の損害賠償訴訟であった。
オリックスの傘下に
IRIの上場廃止が決まった以上、IRI株主の損害を最小限に抑えなければならない。IRIの引き受け先を探した。数社と交渉したが、オリックスが下落したIRIの株価の3倍強の106億円でオリックス株と交換するという。オリックスなら、ブランド、社格ともに文句はない。藤原はオリックスにお世話になることを決めた。
オリックス会長の宮内義彦とは一度、経団連の会合で会ったことがある。紳士的で財界での発信力もあった。相手としては申し分ない。オリックスとの合意を発表したのは、IXI事件発覚から約半年後の2007年6月4日のことだった。
9月26日、最後の株主総会を明治記念館で開いた。会場はヤジや怒号は一切なく、株主からは「オリックスのようなお堅い会社に入って、自由闊達なIRIグループ社員は元気に仕事を続けられるか」と言った励ましの言葉があった。
約60分の株主総会が終わった。藤原たち役員全員が起立して閉会の挨拶をした。期せずして、株主の間から拍手がわき起こった。藤原は目頭が熱くなり、改めて上場廃止の責任の重さを実感した。
藤原は2014年9月、還暦(60歳)を迎えた。東京ドームホテルで還暦を友人、知人から祝ってもらった。自らを「還暦少年」と言った。少年のように夢を持ち続けたいという願いであろう。
現在、藤原は東証ジャスダック上場のブロードバンドタワーの社長をしている。都市型データセンターの会社である。売り上げが連結で267億5500万円(2014年6月期)、経常利益8億100万円を計上した。「約300億円の会社を拡大させる」と意気盛んだ。
売り上げ拡大策として打ち出したのがIoT事業。IoTというのはインターネット・オブ・シングスのことで、これまではインターネット・オブ・ヒューマンであった。つまりインターネットは人とつながっていた。藤原は「これからは人間だけでなく、インターネットが物につながる時だ」という。
現在、地球上の人間約25億人がインターネットとつながっている。しかし、インターネットと物(機械など)は約4倍の100億台とインターネットがつながっており、IoTは今後、益々増えて行く。これをビジネスにすれば、売り上げはすぐに1000億円を突破するという。
IoTで浮上狙う
藤原の説明をもっと聞いてみよう。例えば、飛行機エンジンのメンテナンスにIoTを導入する。そうすると、いつ、どの部品を替えなければならないかがわかる。このように物にインターネットがつながると、インターネットの需要は飛躍的に拡大する。ブロードバンドタワーの売り上げも拡大するという寸法だ。
ブロードバンドタワーは米国のエブリセンス(サンノゼ市)とIoT事業で資本・業務提携した。ブロードバンドタワーはエブリセンスが新たに発行する290万株を引き受ける。これによって、ブロードバンドタワーのエブリセンスの出資比率は25%となる。
業務提携については、両社が共同でセンサーデータの変換プラットフォームを開発、そのプラットフォームを活用したデータ取引所を展開して行く。
さらに、ブロードバンドタワーは社内に「グローバルIoT事業推進本部」を新設、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)と共同で現地の先進的なベンチャー企業を発掘するために、IoTオープンイノベーション拠点を創設する。サンディエゴ地域は無線通信技術最大手のクアルコムやゲノム解析技術を持つイルミナなど、IoTの鍵を握るベンチャー企業が集積している。ブロードバンドタワーは2020年までに1200万ドルを投資、IoT事業をグローバル展開する。
藤原には「このままでは日本の企業からイノベーションが生まれない」という危機感がある。米MIT(マサチューセッツ工科大学)では毎年、イノベーションの活発な企業50社を世界各地から選んでいる。ところが、ここ数年日本からは1社も選ばれていない。中国からはバイドゥなど3社が選ばれているというのに、なぜ、日本から選ばれないのか。藤原が推測するのに、日本企業はいまだにビフォワーインターネットの時代に生息しているからだという。確かに日本企業の主なものは古い企業が多い。
例えば、2014年1月の時価総額ランキングで見れば、1位トヨタ自動車21.4兆円、2位ソフトバンク10.7兆円、3位三菱東京UFJFG9.6兆円と10位まで古い企業が名を連ねる。IT企業のソフトバンクも社歴は30数年になる。
一方で米国の企業はグーグル、フェイスブック、アマゾン、イーベイ、テスラモーターズなど1995年以降創業のスタートアップ企業が目白押しだ。これらスタートアップ企業上位10社の時価総額は105兆円、日本の上位10社の時価総額は89兆円。藤原でなくても日本の将来が不安になって来る。
イノベーションを促す会社になる!
なぜ、日本企業は古い大企業ばかりになって来たのか。藤原は「中央研究所(自前主義)が弊害になっている。オープンイノベーションにならなければ」と警告する。日立製作所、豊田中央研究所など大手企業はほとんど中央研究所を持ち、それぞれ同じ研究をしている。これをオープンにし、社内外を問わず広く技術やアイデアを集め、今まで不可能だったイノベーションを実現するのである。
ネットでアイデアを募れば、たくさんの技術者が参加するであろう。