会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2015年10月号掲載)
感情を認識するロボット、「ペッパー」が2015年6月から発売された。今のところ、企業ニーズが高く、6月、7月に各1000台発売したが、イベント用や案内用に、またたく間に売れた。問題は個人が買うかどうか。本体価格19 万8000円のほか、メンテナンス代2万3800円(月額)はちょっと高過ぎるような気がする。独自の商品を持ちたいというのはソフトバンクの悲願であり、ペッパーの人気上昇はどこまで続くか。(文中敬称略)
【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、相澤英祐、柄澤 凌
一人佇む孫正義
東京・新橋のソフトバンク本社。高層ビルの最上階に孫正義の執務室がある。同じ階には秘書室、会議室なども。夜遅く誰もいなくなった部屋で孫正義は一人佇む。船の明かりがポツン、ポツンと浮かぶ東京湾を見下ろしながら、後継者にニケシュ・アローラを指名したときの社内の反応やインドでの企業買収など、次から次に頭に浮かぶ。
中でも孫正義が頭を痛めているのは米国第3位の携帯会社、スプリントだ。最近は4位のTモバイルに契約者数で追い上げられ、もしかすると、3位と4位が逆転するかもしれない。
もし、Tモバイルに3位の座を奪われたら、孫正義には屈辱だ。これまで孫正義は上位会社を逆転することで、企業家人生を歩いてきた。孫正義の辞書に「逆転を許す」という言葉はない。
それが今、逆転されようとしている。しかも、スプリントは赤字経営から脱していない。これほどの屈辱があろうか。孫正義はこう考えて、スプリントの再建に懸命にあたっている。CEOを代えたり、スプリントの回線を改善したりしているが、なにせスプリントは契約者が6000万人弱と日本のソフトバンクより大きい。簡単には進まない。孫正義をして、「長くて厳しい戦い」といわしめている。
ここまで原稿を書いたところで、日本経済新聞の8月5日付けで「スプリント4位転落」の見出しが踊った。
スプリントが契約件数で3位から4位に転落したという。4日発表した4?6月期決算では6月末時点の契約件数が5786万件となり、4位のTモバイルの5890万件に抜かれたという。10年ぶりのことだ。
孫正義は逆境に滅法強い。そこが並みのベンチャー企業家と違う。ゴルフでも劣勢になると、猛烈にファイトを燃やす。もっとも、いつもワンラウンド70台で回るので劣勢になることは滅多にないが。
しかも挽回策は正攻法だ。奇策は使わない。孫正義は奇想天外な発想をしそうだが、改善策は真正面から取り組む。中途採用の社員がパソコン入力に不慣れな場合、「ブラインドタッチができるように、練習して下さい」と指示する。
恐らく、スプリント再建も正攻法で取り組むだろう。まず、人件費など無駄な支出を削り、回線を1、2位のライバル企業に負けないように改善するだろう。途中では絶対に投げ出さない。たとえ、1年かかろうが2年かかろうが。
企業には課題があった方がいい。課題があれば、社内の緊張感が保たれる。一番困るのは課題がないことだ。課題がないと、派閥争いや大企業病がはびこる。
ソフトバンクは今や7万人強の大企業になった。社員の8割は大企業志向である。ソフトバンクはベンチャー企業であると思っているのは、孫正義以下、古参の社員だけだろう。
その意味で、スプリントを買ったのは正解だった。社内に大きな課題が出来たのだから。
孫正義はスプリントの再建を考えながら、漆黒の東京湾に目をやった。
ペッパー、救世主となるか
だが、ソフトバンクには暗い材料ばかりではない。明るい材料もある。むしろ、スプリント再建問題を除けば、明るい材料ばかりだ。その中でも孫正義が今、期待しているのは「ペッパー君」だ。
「Pepper(ペッパー)」は2014年6月に生まれた。感情認識ロボットだという。孫正義は「ロボットに愛を与えた」と語る。ロボットに感情を与えることには賛否両論ある。英国の有名な博士のスティーブ・ホーキングは「やがてロボットが人間を使うことになる」と感情を与えることに反対であるが、孫正義は「そういう心配は無用」と楽観的だ。その論争はあとで、じっくり検証するとして、まずは孫正義がなぜ、ロボットに興味を持ったか、その辺から話しを進めよう。
もう5年、いや10年前になるだろうか。孫正義にインタビューをした時、日本の少子化問題になった。孫正義は常に政治問題に関心があり、「少子化の解決策はロボットではないのか」と答えた。
1億台のロボット生産
その時は少子化により労働人口が減るので、穴埋め役としてロボットを沢山作れば良いと孫正義は言った。どの位つくればいいのかという筆者の質問に答えて、「とりあえず1億台つくりますか」と答えた。そのスケールの大きさに筆者は驚いた。
孫正義の説明によると、「なにも人間に似せたロボットをつくる必要はない。たとえば、縫製ロボットだったら、ミシンのようなロボットでよい。これなら1台10万円でつくれる」。10万円で1億台。10兆円あれば可能だ。現在のソフトバンクの借入金で日本の労働力不足は解消する。「ブルーワーカー不足は解消しても、創造力や企画力を持った人材確保はどうする」との反論があろう。その問題はあとに置くとして、孫正義はきのう今日、ロボットを考えていたのではない、ということを分かってほしいのだ。
その延長線上にペッパーが生まれた。今度は縫製ロボットではなく感情を認識する。人間と会話も出来るロボットだ。ちゃんと人間の形をしている。
ソフトバンクはこれまで、独自の開発商品がなかった。携帯電話も後発組だ。口の悪い人は「10 兆円借金して、iPhone(アップルの商品)を売って、どうするの」と陰口をたたく。これは9割までやっかみが、1割は真実をついている。独自の商品を開発するのはソフトバンクの悲願だったし、それでこそベンチャー企業といえるだろう。
ロボットは日本のお家芸
ペッパーを発売しているソフトバンクロボティクス社長の冨澤文秀は日本経済新聞で次のようにペッパーについて語っている。
「日本は本来IT産業で強いはずだが、今使われている機器は米国か韓国のものばかりだ。ネットビジネスも多くは米産業が主導権をとっており、日本企業は元気がない」「だが、ロボットはいわば日本のお家芸であり、スポーツでいうと柔道みたいなもので、日本は絶対に勝たなければならない分野だと思う。ソフトバンクのロボット事業がどうなるというレベルの話ではない。ロボットでまたスマホビジネスのようなことになったら、この分野で今後何十年も海外勢にやられ続けることになりかねない」
冨澤の決意がひしひしと伝わって来る。これは孫正義の決意でもあろう。日本はIT分野ではアメリカの後塵を拝してきた。大型コンピューターはIBMに、パソコンではマイクロソフトに、さらにインターネットではヤフー、グーグル、フェイスブックなどの後追いに終始してきた。
土俵を変える
土俵を変えなければならない。それがロボットだ。ロボットだったら、日本は長い伝統があるし、冨澤が言うように日本のお家芸でもある。アメリカに主導権を握られることもない。
ロボットを進化させて行けば、AI(人工知能)の最先端分野でもアメリカ企業に負けないだろう。日本は初めて先端技術で先頭に立つことができる。孫正義の歴史観はそう確信している。
ペッパーはその悲願を現実のものにする第1号だ。2015年6月に開かれた記者会見は孫正義が最も力を入れたものだった。わざわざ都心のホテルではなく、ディズニーランドに近い千葉県・舞浜のホテルを記者会見場に選んだ。
ソフトバンクの記者会見は定例の決算発表を除いて、いつも急だ。広報は会場探しに奔走する。今回のペッパー会見は都心のホテルが空いていなかったのか。わざわざペッパーにふさわしい会見場を選んだのか、定かでないが、ともかく舞浜のホテルで開かれた。
まず、スポットライトに照らし出されたのはペッパーである。感情を認識するロボットを強調するため、ペッパーが不安になったり、喜んだりする様子がペッパーの胸のディスプレーに表示される。「僕、ペッパーです。よろしくね」と可愛らしい声で会場の記者たちに挨拶する。
記者会見場にペッパー現れる
次はいよいよ孫正義の登場だ。ペッパーの後ろからトントンと肩をたたく。「びっくりするじゃないですか。驚かせないで下さいよ」。ペッパーが愛らしく文句をいう。「ごめん、ごめん。別に驚かすつもりはなかったんだよ」と弁解する。 このあと、孫正義がなぜ、感情認識ロボット「ペッパー」を開発したかを会場の記者たちに説明する。
「僕が初めてロボットをテレビで見たのは鉄腕アトムでした。6歳の時です。鉄腕アトムは百万馬力もあるし、空も飛べます。しかし、『心』がない。そこで、心を持ったロボットを作ろうと思ったのです」
確かにペッパーは画期的な商品だ。人間との会話ができる。AIが中に入っているのだろう。孫正義は創業30周年のイベントでこんな風に話していた。
「チップ(集積回路)の集積度は今後も進み、やがて人間の脳細胞を超えるでしょう。人間の知能をロボットが超えるのです。人間との会話を自由自在にこなすロボットが出現します」。それがペッパーだ。
現在、ペッパーの本体価格は19万8000円。それに月々2万3800円のメンテナンス費用がかかる。6月、7月は各1000台が1分間で完売したという。主に企業が宣伝用や店舗の案内用に買ったのだろう。
会見は続く。アリババのジャック・マーや台湾のフォックスコン(鴻海科技集団)CEO、テリー・ゴウも登場、孫正義と3人でペッパーと仲良くカメラに収まった。
アリババとフォックスコンは1年前の2014年6月18日、ソフトバンクロボテックスに資本参加すると発表した。それぞれが145億円出資し、ソフトバンクロボティクスの出資比率はソフトバンク60%、アリババとフォックスコン各20%となる。
おそらく、ソフトバンクロボティクスがペッパーの頭脳部分の企画・開発を担当し、アリババがネットで販売し、フォックスコンが製造を担当することになるだろう。
孫正義は3社の合弁出資の記者会見で次のように述べた。
「アリババとフォックスコンとともにペッパーの世界進出に挑戦できることを、とても嬉しく思っています。これから世界一のロボットカンパニーを目指してまいります」と孫スマイルを振りまいた。並み並みならぬ意欲を見せた。
ジャック・マーは「ロボットはテクノロジーの革命を起こす重要な分野になります」、テリー・ゴウは「インダストリー のビジョンを実現して行くことが当社の戦略的な領域です」とそれぞれ抱負を語った。
一般家庭が買うか
問題は一般家庭が買うかである。当編集部でも意見が分かれた。賛成派は「携帯電話だって、こんなもの誰が使う。と思っていたが、今では日本中で持たない人はいないほど普及した。中には2台、3台も持っている人がいる。ペッパーだって、10年も経てば持っていない家庭はないぐらいになる」と言う。
反対派は「1ケタ高い。携帯並みの値段になれば、考えてもいいが。しかし家の事情がペッパーを通して全部知られるのは勘弁してほしい。知られたくない情報がダダモレですよ」と反論する。
このほか、英国の有名な博士、ホーキングが心配する「ロボットが人間を使うように」なったら、大変だ。孫正義は「絶対にそんなことは起きない」と太鼓判を押すが、開発企業だから楽観的なのだろう。
バイオテクノロジー(生命工学)の出始めの頃も論争が起きた。片や「生命は神の領域だから、人間が生命を操るのは許されない」。一方バイオの肯定派は「聖域をつくったら、科学の発展はありえない。人間の技術革新は神への挑戦でもあった」
良くも悪くも孫正義は経済界に話題を振りまく。情報革命という視点さえ外さなければ、さらに孫正義が危惧する大企業病に陥らなければ、ソフトバンクの時代が続くだろう。
孫正義の欠点は関心が長続きしないこと。「大体、半年続けば、いい方でしょう」と側近は語る。孫正義のロボットへの関心が長続きすることを願う。