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Vol.02【日の丸キャピタリスト風雲録】日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合代 表 村口和孝

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

新しいコンセプトの個人型VC誕生秘話

(企業家倶楽部2008年6月号掲載)

日米の仕組みの違い
 まだ私が前職の頃、シリコンバレーを訪問しキ ャピタリスト関係者と自己紹介の際に答えに窮する質問が、「Are you venture capitalist?」だった。「私はベンチャーキャピタル会社に勤めている」と答えると不思議そうに首をかしげながら 「You are not capitalist」とくる。当初はどういう意味だか何年も理解できなかった。日本にはベンチャーキャビタル(VC)会社しかなく、現場で投資活動を行っている社員は従業員でしかあり得ない。日本のVC組織は、会社で内部に専門の審査部もあればコンサルティング部もあり、組織的に優れているように思われた。いったい、投資の前線で一生懸命働いている私がベンチャーキャピタリストではないとはどういう訳か理解に苦しんだ。
 米国におけるベンチャーキャピタリストとは、 資金をブールする入れ物である投資事業組合(LP)の運営を担う、業務執行組合員(GP) 組織の パートナーのことである。最低限は自らファンドに出資しなければならず、自ら投資先の役員となり事業の進捗を監督支援している。これは非常に危険の伴う重責であり、他の株主から代表訴訟の危険に身をさらしながら、投資先の役員会で高度な判断と言動を求められる。すなわち米国のベンチャーキャピタリストは、以下のようである。
1 自ら投資事業組合を組成し、自ら投資組合に出資参加する。
2 投資意思決定に、権限と責任を負っている。
3 投資組合から管理報酬(マネージメントフィー)をもらって活動し、投資に成功するとキ ャリー (成功報酬) がある。
4 投資した会社の社外役員となって関与し、事業発展の進捗状況をモニターしながら、概ね 5年間の長期に渡って支援する。
5 投資活動の規則は、組合契約で定められていて、長期にわたり自由に辞められない。
ところが、日本の従来型のVC会社は、構成員 をサラリーマンとしてベンチャー投資活動を行っ ている。日本のVC会社投資担当者の特徴は次のようである。
1 自ら投資組合を組成せず、自ら出資していない。
2 投資組合の投資意思決定に提案権は持つが、決定権は無く責任も無い。
3 会社からの従業員としての給料と賞与で報酬 を得ている。(成功インセンティプが小さい)
4 対外的責任が重いので、投資先の社外役員にならない場合が多い。なお、長期に渡って投資先に関与するかどうかは、人事政策に依って いて自ら決定することがかなわない。
5 投資活動は、就業規則及び職務規定にのっとっており、従業員であるので労働基準法に守られ、退職も出来る。
 こうやって見ていくと確かに日米のVCの仕組みそのものに相違点がある。しかし、これは日本の会社運営の実情に照らせば、至極自然なことであって、日本の実情に合った体制といえると当時はずっと私も思っていた。

社内調整で疲労困憊
 92年に日本では珍しい創業期投資の案件として、 本業の売上高が僅か数百万円しかない「ジャパンケアサービス」という介護サービス業の投資を担当した。私は介護サービスが大きな市場として5年以内に民間需要が立ち上がってくることやその際、高品質なマンパワーを大量に動員できる業者が介護サービス業界の重要会社になることを長期予測し、大論文のレポートを作成して投資すべきことを社内で訴えた。厚生日書の作成背景から、 現地調査まで織り交ぜて調査にはほぼ1年掛けた。 撮った写真のスライドまで準備した。
 ところが会社は、「業界もなく実績が無いので 投資審査できないし、投資すべきでない」と言う。 私は市場が創造される以前の未然形のプロジェク トに実績やデータが無いのは当然であり、そこを先行評価してこそベンチャーキャピタル投資ではないかと必死に主張した。調査も進めて何度も資科を作り直し、社内の関係する人たちを必死で説得しようとした。結局は投資が出来たが、近頃最低の案件とまで役員に言われた。
 社内調整と書類作りで、ただでさえ出張など多忙の上に睡眠不足と労が重なり、風邪をこじら せて私は生まれて初めて病院に入院し、初めて点満を腕に受けた。私はなぜ病院のベッドに横になっているのだろうかと、何度も天井を見つめた。
 会社のために一生懸命創業型ベンチャー投資をやっているつもりが、どうして組織の中でこんな破滅的なことになってしまうのか。

イスラエル訪問
 ちょうど今から10年前の98年頃には、私はジャパンケアサービスやアインファーマシーズ、松本建工、福原などの貴重な全行程一貫した複数の成功体験を整理して、自分なりに日本におけるベンチャーキャピタル投資のあるべき姿をそろそろ思い描けるような気がしていた。当時ベンチャー企業とVCが勃興してきている国として、イスラエルに自費で訪問することにした。イスラエルのVC産業が10年の歴史があるのに対して、私はすでにVC会社で14年間の経験を積んでいた。私はてっきりイスラエルのベンチャー関係の人たちに何か教えられるのではないかという思い上がった妄想を抱いてテルアビブ空港に降り立った。
 イスラエルのVC事務所の人たちに会って驚いた。何とシリコンバレーのキャピタリストと同じように、創業期のベンチャー企業への投資と関与を実行していることを、目の当たりにさせられたからだ。VC業界そのものが10年しか経っていないのに、14年の成功経験を持った私よりも自然に創業支援ベンチャーキャピタリストらしく行動できている。これはどういうことか。
訪問中に1日だけイェルサレムにバス旅行に行った。世界史の名跡が目の前に広がり、キリスト が磔になったゴルゴダの丘と、イスラム教の嘆きの壁が目と鼻の先であることに驚き、そこに自分が立っていることに不思議な感じがした。その後、 日本に住んだことのあるイスラエル人と一緒にホテルで中華料理を食べた。彼は、「日本人は皆で調整して話しを決め、全員で動くから良い。イスラエル人は個人主義(Individualism)だ から、3人で酒を飲んだらそれぞれ自分が首相になったつもりで政策を語るから、いつもけんかになって話が決まらない。日本人は良い民族だ」としきりに褒めた。
 褒められれば褒められるほど、逆に私はこれが 日本の欠点だと思った。つまり、日本のVC会社は合議制で投資を決めようとしている。よく言えばチェックアンドバランスだ。ところが業界のフロンティアを開拓しようとしている創業ベンチャーの活動など未形で、人によって心の中に様々な個性的な見通しが同時に成立する。これは合議制で決めるものではなく、個人の能力と個性と力量で創造的に投資を決めるものである。そして投資決断した個人が、その個性と未来実現への強烈な想いで長期的に出資支援をし続けなければ立ち上がるものも立ち上がらない。
 そう思った瞬間にもう一人の事が頭に浮かんだ。 福沢諭吉である。なぜなら、「独立自尊」を指導の理念として明治の教育界に君臨したからである。 つまり、私が気付いた個人の創造性の重要性は、 何も今に始まった話ではなく、すでに明治時代から日本人の先駆者たちは指摘してきたことなのだ。 今頃になって私はことの重要さに気付かされた。 「なるほど、私が会社で創業ベンチャー投資を手がけようとして七転八倒した理由もよく理解できた。それまで私は会社が悪い、なぜ組織に尽くしているのにその組織が理解してくれないのだろうと14年間も苦しみもがいて来た。しかし、それは会社が悪いのではなく、創業ベンチャー投資を会社でやろうとするから合議制になって進まないからと気付いた瞬間だった。つまり、個人のキャビタリストが個性的に独自の見解で既存の社会から独立的に投資をすべき仕事なのである。

退職と新型投資事業組合の設立
 新しいVCを作らなければならないと思った。テルアビブ空港から乗り換えのためアムステルダムのスキポール空港で独立後のVCを構想した。 飛行機がシベリアを越えて機内放送で遠くのオーロラが見えたころ、独立するならこの名前で行こうと現在の日本テクノロジーベンチャーパートナーズ (NTVP)を考えた。土曜に成田に戻り、 月曜の朝まで親族の説得や退職の準備をしたが、 創業ベンチャーキャピタリストを自任していたわりには、辞表のかき方を知らずにいた自分に今さらながら驚いた。駅前の本屋で「会社の上手な辞め方」という本を買ってようやく退職の準備が整った。月曜の朝一番で担当役員のところに辞表を持っていった。
 98年の春、私は労働基準法の庇護の元、VC会社を無事退職した。辞めてどうするのか聞かれたが、個人型の新しい創業支援ベンチャーキャピタ ル事務所を立ち上げることを正直に話した。ある人は保守的な日本ではそんなVCはお金も集まらず、投資先も無く、投資しても成功せず、米国かどこかに行ったほうが良いとアドバイスした。
 新しい構造の投資事業組合を求めて、辞めてすぐシリコンバレーに行った。個人が業務執行組合員であることを知り、日本でそれは不可能だと聞き愕然とした。しかし、日本に戻り専門家に聞いたら、日本でも「個人で業務執行組合員が出来ないルールになっていない」と知り二度愕然とした。 だとしたらなぜこれまで日本のVCは、米国と同じように個人で運用をしないできたのか不思議に思った。改めて振り返れば日本では金融機関の子会社がVCファンドを作ったのだから、歴史的にはそれも当然で、人事異動のあるサラリーマンで も運用できる投資事業組合の体制を案しなければならなかったからだろう。
 98年11月、たまたま施行になった投資事業有限責任組合法に則り、NTVPアイー1号投資事業 有限責任組合を設立登記したら、これが日本初の組合となった。業務執行組合員は私自身である。 日本でおそらく初めて、個人が個性的創造的に創業ベンチャー企業に思う存分投資関与できる新しいコンセプトの個人型VC組合が出来た。堀場製 「作所の堀場雅夫会長(当時)や志を理解する方々 から支援が得られたものの、規模は3億3000 万円のミニサイズだった。
 この日本ではまったく新しいコンセプトのファンドのお陰で、現在では上場企業となっているディー・エヌ・エーやインフォテリアの創業期の大胆な資本調達が可能となったのである。

著者略歴
日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合
代表 村口和孝(むらぐち かずたか》
1958年徳島生まれ。 慶應義塾大学経済学部卒。 84年日本合同ファイナンス(現ジャフコ)入社。 98年独立し、日本初の投資非接有限責任組合を 設立。東京を中心にベンチャー企業の創業支援 株式上場支援を行い、ベンチャーカンファレン スを開催。99年よりボランティア活動として、 「青少年起業体験プログラム」を慶應義塾大学 など全国各地で実施。03年より徳島大学客員教 授。07年度慶應義塾大学大学院経営苦理研究科非常勤講師。現在、日本経済新聞夕刊にて定期的 にコラム執筆中。

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