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Vol.05【日の丸キャピタリスト風雲録】日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合代 表 村口和孝

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

DeNA南場智子社長との出会いと「樽酒事件」

(企業家倶楽部2008年12月号掲載)

 以前から面識のあったDeNA南場智子社長の旦那からの依頼で初めて南場社長と会ったのは、1999年7月、池上線千鳥町駅前の小さな喫茶店のカウンター席だ。来るべきXML(Web2.0)普及期に発展するネットオークションを立ち上げるというので、興味を持った。ただ、南場社長は「スーパーコンサルタント」の匂いがプンプンしていて、当初経営実務と技術に詳しくなさそうで、大企業が持株比率を大きく持つ予定である点が引っかかり、支援をしてよいか迷った。ただ南場社長に経営者としての魅力を感じた。

「助言しましょう。しかし課題を感じます。事務 所に一度伺います」と言って別れた。事務所は渋谷NHKの近く、小さなマンション中二階の小部屋で、近くのケーキ屋で創業メンバーの川田氏、茂岩氏らと会った。幕末京都の街の浪人達がそうだったように、成功するともしないとも分からない段階だった。

ドットコムバブルを避ける

 1999年8月、インフォテリア平野洋一郎社長と合流するため、シリコンバレーを訪問した。私は成田エクスプレスの車内で社長から支援への強い要請を受けた。

 時代は、米国シリコンバレーがドットコムブームで、安易なポータルがスタートアップし、いとも簡単にナスダックに上場して億万長者が相次いでいた。日本でもビットバレー騒ぎや、マザーズ、ヘラクレスが開始されるというタイミングもあり、1999年後半は短いITバブルの最中にあった。幸い私は当時ドットコムブームが表層的で短命に終わることを強く感じ、ITバブル崩壊の直接的被害は無かった。

 当時投資に重要と思ったキーワードは、XML(ネット上で互換性のあるデータ形式)、ブロードバンド、イネイブラー(IT新環境の提供業者)、セキュリティー、無線、マルチプラットフォーム(異端末環境の共通サービス)、コンテンツアグリゲーション(コンテンツの混載)などだ。1999年ネット接続PCの普及、ブロードバンド化と常時接続固定料金化、およびXMLの普及を中期的に予想していたので、写真のブラウザ表示、及び入札状況確認のため頻繁なアクセスが必要なネットオークションは、時代と共に重要なサービスになると確信した。ビジネスは、リクルートとソネットの支援を得ることで心配ないと思った。

DeNAの資本政策

 投資検討に際し課題が2つの大企業との資本提携で、9月中旬、童話「赤鬼青鬼」に例えて南場社長と議論をした。最終的に南場社長ら創業者の持株比率があまり下がらないように工夫した。

①まず南場社長ら創業グループの会社に対し、ソネットとリクルートが資本提携して株式を3分の1ずつ持ち合った状態とする。

②その上でNTVPがネットオークションの新サービス「ビッダーズ」開始を確認した上で、立上げ時の資金調達に20億円を想定し、株価評価を高い価値で評価し、増資する。そのためにも早期上場を前提として、監査法人と証券会社を紹介する。

DeNA立ち上げでいきなり危機

 1999年9月応援することを決め、事業計画作成支援のためNTVPスタッフ越山をDeNAに投入し、市場調査を協力させた。彼女は夜中キーボードに手をかけたまま寝られる技を持っていてDeNAメンバーから「すげー」と言われた。一方、私の妻が労務の手続きを、また別のスタッフが有限会社を株式会社へ組織変更など登記作業をお手伝いした。創業期の混沌状態で、あちこちに青い寝袋やお菓子の袋があった。

 ソネットとリクルートが出資作業途中の10月23日土曜日朝のことだ。南場社長の悲鳴に近い電話が携帯にあって、会社に急行した。一カ月後にビッダーズのカットオーバーをひかえているのに、外注したはずのシステムが出来ていないと言うのだ。いきなり話が違ったのだ。ソネットとリクルートとの提携に悪影響があることはすぐに予測できた。

 とっさに①事態を整理し直し、②具体的アクション計画を作り、③最良の策を選択し、月曜日の朝すなわち48時間以内に、④初期的な作業に取り掛かっており、⑤結果としてカットオーバーに間に合う見通しができている状態にしなければならない、と直感した。その為システムの専門家を数時間以内に招かなければならない。

 そこで話を聞いて問題点を私なりに整理した上、相談できそうな人に電話をかけ、来てくれるよう説得した。土曜昼ごろの話だ。結局、創業相談中の現在のエイケア・システムズ有田道生社長と、投資先インフォテリア北原CTOと何とか連絡することが出来、検討した上で、北原氏に応急処置を依頼した。平野社長は海外出張中で日曜日に了解が取れた。突貫工事で月曜朝には見通しが立つところまでこぎ着けた。南場社長らの必死の活動を目の当たりにし、DeNAに投資を止めるどころか、かえって投資は正解と確信を深めた。この事件を契機に南場社長は、ネットビジネスには自前の技術力が重要なことを痛いほど学習した。

DeNAへの初回出資とサンフランシスコ訪問
11月29日のビッダーズのカットオーバーを待ち、DeNAに3億円強初めて出資した。NTVPアイ2号投資組合設立直後だった。つけた株価は当時でも高いもので、時価総額評価40億円を超えていたが、そうしないと南場社長のシェアが無くなる懸念があり、追加資金調達が困難になるからだ。その際株価算定は未上場中小企業に適用の相続税評価額方式は役立たず、DCF(ディスカウント・キャッシュ・フロー)やイーベイ会員数一人当たりの時価総額、さらに売上時価評価倍率(PSR)を使い株価算定した。そして、1999年末、関係者と新橋うどん屋で忘年会が開かれた。

 2000年2月末、上場の下準備と勉強のため、海外旅行をしぶる南場社長をサンフランシスコに連れて行き、インベストメントバンクのイーベイ担当ネットアナリストに会ってもらった。空いた時間で南場社長は、サンフランシスコで靴屋に入りビッダーズ出品用の靴を物色した。その時南場社長から新潟の厳格なお父さんの話や、ハーバード時代の話を聞き、彼女の根性の背景が分かった気がした。

 さらに2000年3月はちょうど楽天が上場する直前で、ITバブルが熱狂状態となり、さらに高い株価(時価総額約150億円)で住友商事中心に13億円の増資が成立しNTVPも追加投資した。当時事業計画は非常に楽観的なもので、数年後に売上百億円に達する計画だったが、実際DeNAが売上50億円を超えるのは2005年2月上場後の次の年を待たねばならない。

ビッダーズ苦戦とITバブル崩壊

 DeNAは早々とビッダーズ立上げを発表しながら、ヤフーにネットオークション市場参入の先を越されてしまった。しかもビッダーズは当初手数料が高く、出品もアダルトが駄目など非常に厳格にしたために、緒戦で無料かつオープンなヤフオクが、市場を圧倒してしまった。

 ビッダーズ立ち上げのときに貧弱だったネットの技術者もオラクル出身者など中途採用に力を入れ随分充実した。ヤフオク対抗連合を結成して2000年7月MSNなど複数の他社ポータルサイトにオークションエンジンと共通データベースを提供開始したり、「おいくら」という中古品市場を検討したり、毎日必死の努力を続けた。しかし時間とともに差は開く一方で、かつ2000年夏ITバブルが崩壊し、売上が予想に反して微々たる状況だった。初期顧客獲得のためのプロモーション費用がかさみ、毎月膨大な赤字を計上した。おまけにITバブル崩壊で新興市場に逆風が吹き始めて、早期上場計画も棚上げとなった。

2001年追加投資とECサイト強化

 DeNAは2000年暮れ渋谷から幡ヶ谷に移転した。直後の忘年会で私は「今は赤字だが来年は当事者も驚くほど発展する」と突拍子も無い楽観的挨拶をした。単に投資先を勇気付けるためだけではない。強気なのは想定どおりの環境変化だったからだ。PC普及率が上がり、固定料金ブロードバンド常時接続環境がADSLにより整いつつあった。

 2001年3月、あと数カ月で投資家から集めた資金が無くなる事を懸念して追加資金調達を行った。最初、春田CFOから話があり、株価引下げと投資総額のイメージを話した。当初NTVPとしては2億5000万円投資の予定が、株主でソネット以外追加投資する者が居らず、結局内部でも異論があったが4億円追加投資した。

 赤字段階での投資資金は、砂漠を走る車に途中で入れるガソリンのようだ。追加投資したからといっていつ砂漠を抜けられるか分からない。3月増資完了、5月にイーベイの日本撤退や、ヤフオク有料化報道にも勇気を得て、ECサイト本格強化を行った。NTVPスタッフも出品用のブランドシャツ購入のため、守安氏らと原宿に並んだ。

 それまでネット上で待ちの営業だったDeNA が、中小商店の電話営業で駆けずり回ると言う質の転換が行われたことが奇跡的だった。それが功を奏し、12月に短月黒字を創業来初めて達成した。

ビッダーズの発展とイラク戦争の暴落

 2002年ヤフオク有料化に対抗策を講じたDeNAは夏場無料キャンペーンなど攻勢に出て善戦し、規模を大幅に拡大し黒字基調が見えてきた。しかしどうしてもヤフオクを抜くことは出来ず、逆転が絶望視された。

 2003年1月南場社長はNTVPの他の投資先社長らと北京見学ツアーに行った。この頃の南場社長はエリートコンサルタントの雰囲気は消えていた。この年春にはイラク戦争で株が暴落し、リクルートが大株主から抜けインデックス(現インデックス・ホールディングス)に代わった。減資が行われ、上場準備ムードも一時後退したが、DeNAは上場した方が発展すると思った。

酒樽事件と上場

 2003年後半やっと黒字が定着してきた。環境も新興市場株が暴騰し、ベンチャーブームが再来した。2004年2月出品数100万品達成し、3月携帯用オークションの「モバオク」をカットオーバーした。同3月には本社を笹塚に移転した。その際、NTVPで新潟の知り合いからわざわざ取り寄せた酒樽でお祝いしたが、これを一気飲みした若い社員らが大変なことになり、トイレが詰まり、「二度と酒樽のプレゼントは止めて下さい」ということになった。

 その頃から上場の準備が再度本格的となり、業界一モバオクの快進撃を受けて2005年2月に東証マザーズに上場。上場記念パーティーには酒樽は出なかった。伝説のサービス「モバゲータウン」開始はホリエモン逮捕事件直後の2006年2月である。モバゲータウン大発展によって、上場後株価は、2006年以降の新興市場暴落の影響を、あまり受けなかった。それもこれも1999年システム外注失敗を契機に充実したDeNAの技術力と経営力のなせる業だと思っている。


著者略歴
日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合
代表  村口和孝 《むらぐち かずたか》
1958年徳島生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。84年日本合同ファイナンス(現ジャフコ)入社。98年独立し、日本初の投資事業有限責任組合を設立。東京を中心にベンチャー企業の創業支援、株式上場支援を行い、ベンチャーカンファレンスを開催。99年よりボランティア活動として、「青少年起業体験プログラム」を慶應義塾大学など全国各地で実施。03年より徳島大学客員教授。07年慶應義塾大学大学院経営管理研究科非常勤講師。現在、日本経済新聞夕刊にて定期的にコラム執筆中。

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