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Vol.08【日の丸キャピタリスト風雲録】日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合代 表 村口和孝

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

瀬戸内海の海洋史に見る日本人のベンチャー精神

(企業家倶楽部2009年8月号掲載)

日本人はベンチャー向きだ

「日本人が保守的で起業家になる人などいない」とは、良く出来た嘘だと思う。25年日本でベンチャー投資の前線活動を続けているが、いたるところで日本人ベンチャー不能論を耳にした。

 ところが、実際私がベンチャーキャピタル投資活動を行う前線で面談した、累積にして一万人近いベンチャー起業家たちは、保守的どころか、アグレッシブな人だらけだった。一般に言われているステレオタイプの保守的な単一民族日本人の特性とは、異なるのだ。また自分自身ベンチャーキャピタリストとして生きてみて、私の中にも、組織的で慎重な自分と同時に、体の中から自然に湧き上がって来るような、開放的かつ楽天的で、活動的な自分とが同居していることに、様々な局面で気づかされるのだ。

 それにしてもいったいなぜ、日本人全員が保守的だというような、現実の一面しか説明しない説が、巷に蔓延するようになったのか。

 仕事をしながら、時間を見つけ最近の歴史の本などを読んでいると、実は日本人の歴史は瀬戸内海情勢からの精神的影響が大きい。つまり、我々の精神風土の中に、瀬戸内海周辺で歴史的に培われた、ベンチャーに挑戦する遺伝子が、今も深く宿っていると思うのだ。以下私なりの歴史の再構成である。

日本史にみる、瀬戸内海情勢の影響

 南中国沿岸から東シナ海を潮に乗って北上すると、九州にぶつかり、狭い水路を抜けるとそこは穏やかで島の多い瀬戸内海である。

 そもそも日本人は、東北を中心とする縄文人と、主に瀬戸内海から進入してくる弥生人の交じり合った混合民族である。そして新しい世界情勢、とりわけ中国や朝鮮からの影響(圧力)は、地勢的に主に瀬戸内海を進入路として、もたらされたと言える。

 逆に瀬戸内海に敵が侵入してくる場合、制海権がなければ大阪湾まで脅威にさらされるということになり、外国と交流しやすい一方、危険であるとも言える。良きにつけ悪しきにつけ、瀬戸内海が日本史に与えた影響は、地勢的に避けられない。その絶えざる緊張感が日本の文明を独得なものに発展させてきたと考えられる。

日本人の寅さん的開放性の源

 隋からにせよ唐からにせよ、中国から学んだ地域の統制法は陸の統制を中心としたもので、日本のように海国だと、土地に束縛されない海に暮らす人の管理などが必要で、中国の仕組みのままでは適用できない。古代の日本が中国に認められるような一等国となるための遣隋使や遣唐使達の努力は、地勢的背景の違いから長く矛盾に満ちた作業だった。未だに同様の問題を抱える国である。

 このことが、時には「男はつらいよ」の寅さんのようにふらふら移動して土地制度に収まりきらない「自治的な海洋的日本人」と、土地制度で縛ろうとする統制管理をよしとする陸に上がった「中央集権管理志向の日本人」(いわば寅さんの妹さくらの定住型)との、矛盾した二重の特質を歴史的に生んできたと考えられる。

古代の瀬戸内海交易の広がり

 邪馬台国が九州説であれ近畿説であれ、大和朝廷が東シナ海と瀬戸内海を経て大阪湾にいたる海域を往復しながら成立していったことに変わりはないだろう。とすれば、日本が海に関係した人々の文明であることは明らかだ。

 古代に始まる大阪の住吉大社は海の神社であり、後に遣隋使遣唐使の守護神となっている。厳島神社総本社の福岡の宗像大社も、古くから海の神として信仰を集めてきた。仏教は6世紀に伝来し、それ以前からも古代、渡来人の活躍など、瀬戸内海を経由する交流は一般的だっただろう。「日の本」という国の名前は、東シナ海からから見て、船で細い海峡から瀬戸内海に入る方向(つまり東)から上がってくる朝の太陽をイメージした表現ではあるまいか。

 法隆寺の柱にはエンタシスという遠いギリシア文明の影響が見られることは有名だ。607年から遣隋使、630年から遣唐使が送られている。663年には白村江の戦いで、新羅と唐の連合軍に破れ、唐の復讐を恐れた中大兄皇子(天智天皇)は、都を瀬戸内海から距離のある大津へ遷都し、瀬戸内海のあちらこちらの防衛を固めた。752年奈良大仏開眼供養の導師はインド人で、仏教交流は古代からグローバルだった。

 平安時代には、菅原道真の提案で894年遣唐使は中止され、道真自身アジアへの前線基地大宰府に飛ばされる。中央集権を脅かすように939年瀬戸内海で海賊の親分、藤原純友の乱が起こっている。大陸からの軍事的圧力を瀬戸内海に感じながら、日本史は各地で武士の発展時代を迎える。港としては、潮を待つ鞆の浦(広島)が発展した。

中世の瀬戸内海の発展と、倭寇

 中世に入り、平家は砂金を背景に日宋貿易で稼いだ。平清盛は福原(神戸)に一時拠点を移している。1185年源平の壇ノ浦の合戦は、もちろん瀬戸内海で、熊野水軍、松浦党水軍が源氏に加勢して勝利している。鎌倉幕府は、すでに日本をぐるりと回る廻船業の活躍が前提だった。1274年、1281年蒙古襲来は、瀬戸内海の入り口博多で撃退することが出来、瀬戸内海まで侵入させなかった。

 室町時代は、日明(勘合)貿易だが、水上水軍、倭寇の活動が活発で、琉球王国の貿易や、ポルトガル船の活動もあり、瀬戸内海は東アジアの海の情報が渦巻いていた。14世紀からタイには数千人規模の日本人街が栄えていた。また大阪湾に面する自由交易都市堺は、この時代に大発展したのだ。

近世の瀬戸内海の外延と、鎖国

 織田信長は、石山本願寺攻めの時、瀬戸内海の毛利・水上水軍の力に手を焼き、大型鉄甲船まで建造している。ポルトガルやスペインと南蛮貿易をする瀬戸内海周辺西国大名の一部が、キリシタン大名になった。信長の跡を継いだ秀吉は、1588年海賊取締令を出し、南方貿易を奨励した。鉄砲や水軍の力を背景に、アジア制覇を目論み、朝鮮出兵まで行って失敗している。秀吉の死後徳川家康は、活発だが政情不安定な瀬戸内海から、遠く離れた江戸に新幕府を開いた。一方、朱印船貿易を奨励し、東南アジアの各地に日本人町が作られた。タイで重用された山田長政が有名だ。

 最終的に西国の大名が実力をつけるのを恐れ、外様大名として参勤交代をして実力をそぐとともに、外国貿易を統制し、またキリスト教を禁止する目的もあり、1641年家光の時代に、鎖国した。大船建造禁止令も出している。ただ、海運の重要性は変わらず、大阪は天下の台所といわれ、瀬戸内海から江戸との間を菱垣廻船、樽廻船などが運航された。航路は全国に伸び、琉球使節や朝鮮使節・オランダ使節も、瀬戸内海と東海道を経由して江戸に訪れた。

近代幕末?現代と、瀬戸内海

 地理的に近い清国がアヘン戦争でイギリスに敗れ、日本が巻き込まれる危機を感じたのが、江戸幕府を開くとき家康が恐れた瀬戸内海周辺西国大名だ。結局これが官軍となって幕府は滅ぶ。当然、坂本竜馬や西郷隆盛は西国出身者であり、海軍伝習所は長崎に置かれた。海援隊も長崎だ。1860年太平洋を渡った咸臨丸の水夫50名のうち、塩飽(瀬内海)の水夫が35名だったという。

 1894年日清戦争も1904年日露戦争も瀬戸内海を外洋に出た目と鼻の先で起こっている。1920年頃第一次世界大戦で船成金が儲ける。第二次世界大戦末期、旧日本帝国海軍の戦艦大和は瀬戸内海から特攻出撃している。原爆は瀬戸内海の入り口の長崎と内側の広島に落とされている。

 戦後は、造船や石油化学など瀬戸内工業地帯として、高度成長の一翼を担う地域となっている。日本が戦後漁業の漁獲高で世界一になるのも背景に海のDNAがあることは間違いないだろう。

敗戦と国民性の偏った自己主張

 日本が第二次世界大戦に負け、新平和憲法のもと、1951年サンフランシスコ講和条約で西側国際社会に復帰した。その時以来、日本人は日本軍を持たず、秩序を重んじる平和な国民であることを世界にことさら強調して来た。過去の二重の歴史を粉飾し、あたかも日本人は陸に上がってじっと保守的に農地を耕すおとなしい国民で、瀬戸内海を背骨とするダイナミックな海洋性のドラマなどなかったかのようだ。その自己誤認が、最近の日本社会を混迷させているように感じる。

瀬戸内海の歴史と日本人のDNA

 以上、日本人の活動的特性を説明する上で瀬戸内海の重要さは歴然としているだろう。海は潮がしょっちゅう変わり、勢力もあっという間に代わって行ってしまう。さまざまな国や文化や言語が入り混じり、交易も盛んである。我々の先祖は瀬戸内海から生き方を学んできた。例えば寅さんのDNAは、次のことだったように思われる。

1.陸と異なり、状況はたえず大変化するので、現場の目と耳による情報力が必要だ

2.どんな事業にもリスクはつきもので、ちゃんと出来ただけでも価値がある

3.良い商品を素早く良い顧客に届けること

4.陸と異なり、政府の統制は当てにならず、自ら情勢を見て、律する

5.グローバルに、他国民と誠実に交わる

6.騙されることも十分にあり、自己責任

7.船団には、道理を重んじるリーダーが必要

8.リーダーの元、粉骨砕身、まじめに仕事する

9.組織は状況に応じ柔軟に体制を変化させる

10.義理人情を重んじ、不正と不信心は、船団の秩序を乱すので厳然と正す

11.年長者の経験を聞き、しけ、潮の変化等、天候の変化には注意する

12.必ずしも定住を重んじず、移動して生活し、活動することが常である

日本人本来の特質をベンチャー経営に生かす

我々日本人は、自在な海洋民族性をふんだんに持っていて、もとより外国に対してオープンで、環境変化対応力に富み、チャレンジ精神旺盛だろうと思う。事実、我々の先人は、世界市場に進出し、高品質な商品を世界中に売っている。そうでなければ、日本は現在世界第二位の経済大国になっていないだろうし、この重大な事実に説明が付かない。商社という業態も世界的にユニークで、明らかに瀬戸内海の海洋性DNAを背景にしている。ベンチャー精神旺盛でなければ、ソニーもトヨタも京セラも三菱三井も世界に出て繁栄し、円もここまで高くなっていなかっただろう。

 ぼちぼち日本人は、自分たちのもつ二つの本性(動く寅さん的性格と、定住のさくら的性格)に目覚め、その特性を人類に生かすことを考えるべきだ。日本の資本主義を、アメリカ型がどうだの、と無意味な議論をしないで、日本人の健全でイノベーティブな海洋性と、管理志向を共存させる複合性こそ目を向けるべきだ。我々の歴史的多面性にこそ、新しい時代を解く鍵があるように思える。その点、最近の日本はすべての人間の活動が陸に上がった中央集権制度で、一元的に管理し切れると思いすぎているようにも感じる。管理志向だけが極端に強くなりすぎて、日本人本来のもうの開放的な良さが発揮できなくなっている懸念がある。日本経済の人類への貢献、特にベンチャー企業経営には、両面が必要だ。いわんやもし、瀬戸内海の寅さん的特質を、罪悪視し、魔女狩りをして排除するような日本が続くなら、先人が培ったこれまでの文化的魅力も、創造性豊かな経済力も衰退するだろう。

 政府の歴史上最大の緊急対策にベンチャー政策がないのは、おかしいと言わざるを得ない。

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