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Vol.63【日の丸キャピタリスト風雲録】日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合代 表 村口和孝

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

スタートアップ成功の本質とは?2018年北海道大地震に学ぶ

(企業家倶楽部2018年12月号掲載)

9月5日、札幌に着けるか?

 2018年の台風のコースは異常で、直撃数が多く、かつ大型だ。なぜか私の故郷に向かってくる。私の故郷徳島県海陽町が、一体何回NHKニュースで実況中継されたかわからない。18年9月4日火曜日、25年ぶりという超大型台風21号が、昼頃徳島県南部に上陸し、関西国際空港が浸水、タンカーが連絡橋に衝突して海外旅行者が大勢空港に取り残された。東京はもうすでに雨で、その夜の銀座で会うはずの投資候補の相手が、関西方面から新幹線の遅れで、時間通りに東京にたどり着けず、会食は時間を遅らせたスタートとなった。この起業家を支援したいなと思い、話に夢中になっている間にも、台風は徐々に本州に近づいており、会食の終わるころには、豪雨になるかもしれなかった(ならずに済んだ)。問題は翌5日だった。その日は、北海道まで行って、札幌証券取引所で午後3時に講演することになっていたからだ。

 大型台風21号は、夜の間に被害を残しながら兵庫から日本海に抜け、依然強力な勢力を保ったまま北海道に向かったために、午前10時半の羽田から千歳に向かう飛行機が、飛ばない危険があった。ただ台風は日本海に抜けてスピードを上げたため、何とか5日午前中には北海道の西側を、駆け足で通過していってくれた。ネットで確認し、午前9時頃家を出て、予定通り羽田千歳便に乗った。飛行機は大型台風が通過するのを追いかけるように、奇跡的に予定通り北海道に着いた!

 ただ、問題は千歳から札幌への足だ。予定していたJR北海道は、台風の影響で全面的にストップ。いつ動き出すのか全くメドが立っていなかった。北海道は中国人など観光客でいっぱいなのに、大型台風で交通が乱れ、ツーリスト会社など、予定変更でさぞかし大変だろうな、などと思いつつ、他人ごとではない。慌てて、千歳から札幌までの高速バスの乗り場へ急いだが、皆考えることは同じ。百メートルを超える長蛇の列ができていた。これを待っていては、午後3時の札幌証券取引所での講演に間に合わない。私はすぐに判断して、すかさず事務局に電話して、予定の電車やバスではなく、列の短いタクシーで向かうことを了解してもらって、高速道路で、札幌市内に入った。

 千歳空港を出る道路は渋滞していて、最初心配したが、出口から先は、思いのほか順調に走ったため、5日午後1時半ごろには札幌市内についた。ゆっくり昼ご飯を食べられそうになったため、ススキノの鮨屋でランチに舌鼓を打った。やっぱり札幌は、食材が新鮮で美味しい!

 歩いて中国人観光客であふれる狸小路沿いのホテルにチェックインし、大通りに近い、札幌証券取引所の講演会場に散歩しながらたどり着いた。大型台風が来て危ぶまれたのに、予定通り講演ができるなんて、信じられなかった。一つ間違えば、今頃まだ東京にいたかもしれないし、千歳空港で足止めを食らっていたかもしれなかったのだ。

5日夜、起業家大谷喜一社長と

 3時から、北海道のベンチャーに対し、いかに情熱をもって創業支援すべきか、アインファーマシーズやDeNA、さらに6月に上場したばかりのIPSなどの創業支援体験の困難について講演を行った。北海道にどれだけ大きな潜在的な可能性があるか力説した。5時半から近くのホテルで受講者の二十代の若手証券や札証関係者たちと立食パーティーをした。8時頃パーティー会場を後にして、もしやと思い、久しぶりにアインファーマシーズ大谷喜一社長に携帯で電話した。

 これも全くの嬉しい偶然だったが、いつも東京にいる大谷喜一社長が札幌にいて、近くで会食が終わったばかりだというではないか!「村ちゃん、久しぶりだな、元気でやってるかい?今札幌グランドホテルを出るところさ。たまには、そのふじ(社長の幼馴染がやっているカラオケバー)で30分でも一緒に行かないかい?」ということで、懐かしい店に十数年ぶりに行った。結局1970年代の吉田拓郎、井上陽水などの歌をリクエストされて歌い続け、思い出の消息話をしたり、亡くなったアインファーマシーズ顧問野尻さんに歌を捧げようなど、気が付いたらあっという間に2時間半も時間が経っていた。久しぶりの札幌に超大型台風をしり目に何とかたどり着けて、予定していなかった大谷社長と初めてゆっくりプライベートで酒を飲めるなんて、人生良いことがあるものだ、と思った。

 別れて、歩いて狸小路のホテルにたどり着いた。明日6日はジンギスカンか札幌ラーメンか、北海道らしい美味しい昼ご飯をゆっくり食べ、午後1時半の千歳便で東京に帰り、夕方の仕事に間に合えばよいのだ。さらに東京で一泊して、明後日7日は徳島に入り、8日スタートアップキャンプ基調講演で、「スティーブ・ジョブズに君もなれる創業10ステップ」を話す。どんな起業家や若者と会えるだろうか。シャワーを浴びて寝た。

6日午前3時大地震遭遇
 18年9月6日午前3時、「クゥーッ!クゥーッ!クゥーッ!クゥーッ!」っと、突然緊急通報が、ホテルの館内を響き渡った。その瞬間、ベッドの上で体が、ガタガタッ、ガタガタッと、強烈に左右に振られる。これは東日本大震災で体験した以来の大地震だ。一体東京のみんなは大丈夫か、でも、あれ?ここは札幌のはずだよな、と半分夢の中で思いながら、TVをつけた。地震速報がニュースで、慌ただしく報道され始めていた。報道するアナウンサー自身も今まさに起きて、情報が少ない中「只今、北海道で大きな揺れを感じました!」と叫んでいた。地震の衝撃から30分もしなかったろうか、突然、TVの画面が消え、停電した。と同時に、ホテルの天井の緊急非常灯が点灯し、ベッドが眩しくなった。

 ホテルの部屋は4階で、ドアの近くにたまたま非常階段があって、中国人たちが大きな声で話しながら階段を下りていく。外へ出る方が危ないだろう、と思いながら窓から外を見ると、街は信号も消え、真っ暗。自動車のランプだけが明るく、狸小路を外国人観光客らがスマホを見ながらウロウロしていた。

6日朝6時半、食糧確保

 非常灯の眩しさと戦いながら数時間、寝て起きた。スマホのインターネットは、このころはサクサク動いていて、ネットニュースを検索して情報を集め、ラジオアプリでニュースもよく聞けた。千歳が建物も一部壊れ、閉鎖、停電解消はしばらく先だという。まずい、いつ北海道を出られるかわからない。7日徳島入りは見通しすら立たない。そこで、食糧の確保に動いた。ホテルの一階のコンビニへ行ってみると、薄暗い店内ですでに長蛇の列となっている。店員は懐中電灯を棚に縛り付け、POSシステムが動いていないため電卓で計算し、現金だけで在庫を販売していた。ノロノロしか処理できない。私も、念のため二食分くらいの、パン、弁当、お握り、大型の水のペットボトルをカゴに入れ、列に並んだ。私が買うころには列はさらに長くなっており、数時間後店の前を通りかかったら、店は閉店していた。

 さらに、午前中情報を集め、北海道脱出に数日かかるかもしれないことを考えると、もう少し食事が必要だと判断し、狸小路から西に数百メートル歩いた先のコンビニに追加の買い出しに行き、さらに二食分くらいの食糧を確保して、ホテルに帰って来た。幸い、スマホの充電バッテリーと、ガラケーの携帯電話を持っていたので、大事に使えば、電池は二日くらい大丈夫だと思った。

6日午後、小樽でフェリーダメ、レンタカーダメ

 何とか7日中に徳島に行きたいが、その方策を探るが解がない。6日夜小樽出発で、京都舞鶴行きのフェリーがあるから京都まで行けば、7日中に徳島に着くかもしれない。古い札幌の友人に頼んで、信号の消えた街を小樽まで行ってもらったら、すでに60人キャンセル待ちで乗れそうにないとスタッフが言う。では、レンタカーで青森の対岸の函館まで行こう、と思って交渉したが停電でシステムが落ち、新規はどうしても貸せないと言う。

 それでは中古車を買えばよいと動いたが、これもダメ。携帯電話も電波が切れ切れで心もとなくなってきた。ホテルに帰り、固定電話にかじりつき、東京経由で脱出方法を模索した。6日夜8時頃、何とか7日朝、札幌から300キロの函館まで自衛隊出身の古い知り合いの車のチャーターに成功した。そこから先、函館から漁船で青森まで行く方法も考えたが、ダメだった。

 6日夜10時頃、東京の友人に頼んで、時々ネットで出ては即消える空席をクリックし続けて数十分やり続け、7日夕方函館羽田便を一席確保。ただ、これだと7日中に徳島入りは無理。さらに数十分何回も空席クリックに失敗した後、7日1時半旭川発羽田便を確保。300キロ離れた函館から、150キロ離れた旭川に車の行き先を変えてもらい、札幌で予定外の一泊をして7日朝には、ようやく札幌のホテル周辺は停電解消した。7日朝、車で札幌を出立して、昼前、旭川空港に到着できたが、旭川はまだバスも通っていなくて、空港内は長蛇の列。機内に乗り込んだ。

7日午後、羽田乗換で全力疾走

 これで7日夕方徳島まで入れると思って、旭川空港で飛行機に乗り込んだら、機長から機内放送があった。「この機体は、緊急の患者を乗せてからの出発となります。」何と!結果、40分遅れで羽田に向かって出発したために、羽田に着いた時には、徳島乗換便はすでに出発した後だった!

 ただ、そんなこともあるかもと、次の航空会社他社便を予約だけ入れていたのだ。ただし、10分で他社のゲートまでスタッフと一緒に走らないといけないと言う。羽田空港内の旅客ターミナルを繋げている私鉄のホーム脇の通路を全力疾走した。こんなに走ったのは何年かぶりだ。一緒に走ったのは20代の女性地上スタッフだったが、仕事とはいえ、ほんとに彼女の伴走がなければ、飛行機には乗れなかった。分かれた時に感謝の握手をしたが、彼女は汗びっしょりだった。

 ようやく、7日夕方、予定通り徳島まで到着して、翌日の基調講演に間に合ったのだった。徳島の人達は、私が予定通り来たために、何もなかったかのように和やかに笑って迎えてくれたが、私にとって、徳島到着は奇跡としか思えず、しばし振り返った。

「飛躍の経営」への気付き

 この話は実話である。ただ、この話は、私の人生を懸けたベンチャーキャピタル立上げや、DeNAやIPS起業家支援の前線の話と、あまりにも共通していると思って愕然とした。「起業家とは、機転や偶然や人との関係をてこに、思い切り行動し、試行錯誤して諦めなければ、予定通りではなくても、何とかそれなりの結果にたどり着く道が開ける」という、本質に目を開かされた、人生で忘れられない事件となった。

 さらに起業家は、危機を乗り切ることをきっかけに、それを節目に、それまでの経営を単なる過去からの成長軌道から、不連続的にジャンプする、異次元へ飛躍する転機とする。つまり大きな危機を乗り切る体験は、自分自身を未知の領域に飛躍させるチャンスなのだ。偉大な起業家は、既知のエビデンスで固めた組織的「成長の経営」よりも、未知の偶然や他人とのご縁によって生まれる天与の機会をきっかけに発展する「飛躍の経営」を大事にしている、と気付かされたのである。

 私が徳島スタートアップキャンプでこの話をしたのは言うまでもない。だからこそ、危機を受け入れ、向き合い、全力で考え、行動して結果を出し、自分の可能性に気付き、すべてに感謝出来る謙虚な起業家こそ、本物の起業家なのだ!


著者略歴

日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合代 表 村口和孝 《むらぐち かずたか》

 1958年徳島生まれ。慶應大学経済学部卒。84年ジャフコ入社。98年独立、日本初の独立個人投資事業有限責任投資事業組合設立。06年ふるさと納税提唱。07年慶應ビジネススクール非常勤講師。社会貢献活動で、青少年起業体験プログラムを、品川女子学院、JPX等で開催。投資先にDeNA、IPS、PTP、モーデック、グラフ等がある。



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